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実のところ、娘の結婚式を来月に控えていた高梨は、今の幸せに水を差すような真似はしたくはなかったのだ。だから病気のことを妻と娘に言い出すか、それとも隠しておくか、因循しながらの帰路となった。
朧な夕間暮れの住宅街を縫う帰り道を俯いて歩く高梨は、不意に妙な気配を察した。道の向こうから高梨に視線を向け、近づいてくる人の姿があったのだ。
最初は薄暗くて気づかなかったが、その人物の姿があらわになるに従って、高梨の胸は不規則な鼓動をし始めた。
その鼓動は相手が近づくにつれて次第に強く、そして激しくなっていった。
――あの時の、燕尾服の男だ。
街灯の明かりに映し出されたその姿は、かつて取引をした、あの時とまるで変わりがなかった。血で染め上げたような真紅の燕尾服、ぎらぎらと光沢を放つ銀白色の髪、そして闇夜のような黒いシルクハット。
口許に嘲笑うような笑みを浮かべながらも鋭い視線で高梨を突き刺し、風貌にそぐわないやわらかな口調で話しかけてきた。
「ご無沙汰しております、高梨さん。十年間の寿命と引き換えに、人生を有意義にできたようですね」
「お前、一体何者なんだ。見た目も全然変わってねえし、寿命を奪うなんて人間のすることじゃねえ」
「おっと、感謝される覚えはあっても叱責を受ける筋合いはないと思いますけどね、僕は。だってきちんと説明しましたし、選択したのはあなたですからね」
「アレを手にして抑えられる訳がない……」
低い声でそういう高梨の額はじっとりと汗を浮かべ、握りしめる拳は震えていた。正体不明の相手に恐怖心はあったが、この男が自分の運命を握っているのだと思念し、情けをかけてもらえないか、探りを入れることにした。
「来月、娘が結婚することになっている。できれば孫の顔までは見たいんだ。せめてそれまで、俺は生きられるか……?」
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