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「落ち着きましたか?」
やっと泣きやんだ千尋の、汚れている口元を丁寧に拭っていく。慶榎の方を見上げた彼の顔はやつれて、目は真っ赤で。これほどまでに辛い思いをさせた自分を、責めたくなる。
あの日、千尋が真尋に対して“そんなの知っている”と言ったのを、慶榎は偶然耳にした。その瞬間、無駄な勘違いをして愚かな自分を反省するとともに、千尋を幸せにする道はこれしかないと悟った。
冷泉家は、慶榎を跡取りとする代わりに慶榎の結婚相手に口出しをしないと約束してくれた。そして千尋の父は、今日まで千尋に真実を告げないことを条件に、千尋を冷泉に嫁がせることにしぶしぶ同意した。
だから千尋には全てを黙って進めたのだが。
…こんなことになるくらいなら、無理やり奪えばよかったと思う。誰にも言わず、後先考えず連れ出して。
「…まだ思考が追いついてない… 」
掠れた声でそう告げる千尋を抱きしめる。
「まずは湯を浴びてお着替えを。それから、馬車で参りましょう。」
ふわふわとした亜麻色の髪に触れながら、優しく声をかけた。
「…うん。」
千尋の返事は、少し子供っぽい口調で。慶榎にはそれが自分を信頼している証だとわかっているから、なおさら愛おしく感じた。
風呂場に行き千尋の衣服を丁寧に脱がしていく。彼は、自分で妊娠を自覚してから1人で入ると頑なに言って聞かなかったが、今日は黙って世話をさせてくれた。
ほとんどわからないくらいだが、腹部だけが少し膨れている。
「…もう少したくさん食べて、太りませんとね。」
そこを優しく撫でてやると、千尋は小さく色っぽい声を漏らしながら、身をよじった。
「…久しぶりだから、恥ずかしい…。」
あえやかな声がそう告げる。
「とてもお綺麗ですよ。」
視界に、赤く刻まれた噛み跡が映る。それは千尋が自分のものだという証。
愛おしさに、たまらず後ろから抱きしめた。千尋の身体は一瞬跳ねたが、少しも抵抗を示さない。
いつも千尋の体温は慶榎のそれより少し低いのに、今日はなぜか温かく感じる。きっとお腹に命が宿っているせいだと思うと、余計に愛くるしく感じた。
千尋が慶榎の方に体を向け、絡みつくように抱きついてくる。
布に包まれていないその身体から、愛を求めるような、すがるような、そんな声にならない声が伝わってくる気がした。
互いの温度を確かめるような、優しい沈黙が流れていく。何も言わず、唇さえ合わせず、ただ互いがそこにある事を確かめるような時間。
「…その口調、やめない?」
ふと、千尋がそう言った。
「この口調、ですか…?」
「だって慶榎、もう執事じゃないでしょう?むしろ慶榎が主人で。なら、僕のことは呼び捨てにするべきじゃない?」
んー…?、と小首をかしげる千尋に、もう恥じらう様子はない。
「…それは難しいお話ですね…。」
「慶榎さん。」
千尋が先にいつもと違う呼び方をして、慶榎はうっと言葉に詰まった。慶榎慶榎と呼んでくるのも可愛らしいが、その一方でいつもと違う呼び方も愛らしい。
「ねえ、慶榎も呼んで。僕の名前。」
いたずらっぽく無邪気に笑う。そんな千尋の表情を見たのは、七夕に旅行に行ったときぶりだ。
「ち、千尋、……さま…。」
思わずつけてしまった敬称に千尋は声を上げて笑って。
こんな瞬間を、幸せだと思う。自分の頰が緩んでいくのを感じる。
こんなふうに力を抜いて笑ったのは、本当にいつぶりだろうか。
「風邪をひいてしまいますね。申し訳ありません。」
けれども千尋を呼び捨てにすることは難しくて。
誤魔化すようにそう言って、慶榎は千尋の身体に湯を滑らせたのだった。
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