第8章

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千尋は、中から鍵をかけると、手に持った花を自らの口に近づけた。 しかしその花弁を前に口を開いた瞬間、よくわからない感情が押し寄せて、口に含むどころか逆に、腹がひっくりかえるほど嘔吐してしまった。 「ぅっ、ぐぇっ…ぁっ、ぐぁぁぁぁっ… 」 手が震え、花を落としてしまう。 隔離された空間で、誰にも気付かれず死ぬこと、一人だったらきっと、もっと楽だったのだろう。 けれど、今千尋の身体には新しい命が宿っていて、それが望まれないものだったとしても、慶榎に愛されたからこそ賜ったもので。 愛おしい。殺すだなんて、不可能だ。そんな気持ちがいきなり強く主張した。 それに併せて、幻聴が聞こえる。 「人殺し。」「助けてお母さん。」「許さない。」「愛してる。」 「許さなくていい。僕を恨んでいいから。」 そうしても聞こえなくなるわけでもないのに、耳を塞いで、声に対して必死で叫んだ。 千尋の思いは1つだけである。 慶榎に幸せになってほしいと、それだけなのだ。そうなるために邪魔な因子は、自分を含め消してしまいたい。 もしできないのであれば、どうすればいいのだろう…。ここまできて、慶榎のことも失って、死ぬことすらできないならば、千尋は、そして今腹に宿る命は、どんな運命を辿るというのだ…。 途方にくれて、へなへなと床に座り込んだ。 全部、全部千尋が悪いのだ。慶榎を求めてしまったから。好きな人に死ぬまで消えない愛を刻んで欲しいと願ったから。 そのまま幾度も花を含もうとしては、嘔吐するのを繰り返した。 「千尋様、お食事です。千尋様。 …置いておきますね。」 先ほどの執事だろう。声が聞こえて、しかしそれを千尋は無視した。 吐瀉物が異臭を放って広がっており、さらにトリカブトまで転がっている部屋に通すわけにはいかない。 汚れた上着とシャツを脱ぎ捨て、椅子に座り、机に突っ伏した。 疲れのせいか、眠気が押し寄せる。 こんな状況でまだ逃げるのかと、無責任な自分を呪う。 それでも、眠る間は逃げられることに、ひどく安心したのも事実だった。
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