第9章

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「千尋様は私が、冷泉から追い出されたことを覚えていますか?」 「…?ああ。」 「ですが、弟がΩだったそうです。ですから私が、家を存続させるため、呼び戻されました。始めは断っていましたが、結婚相手について一切の指図を受けないという条件つきで、私は冷泉の跡取りとして戻ることを決めたのです。」 「ま、待って、弟がΩって、だってまだその子って…」 「ええ、まだ6歳です。しかし彼は言語に障害があるらしく、早めに選別しておこうと5歳の頃には既に、第2性の検査を終えておりました。」 「選別… 」 その言葉に、千尋は不快感を隠せなかった。1人の人間を、そんな風に物のように、家の後を継ぐ人形のように扱っていいのだろうか。 「冷泉はそのような家なのです。…いえ、一条もそうかもしれませんね。しかしこれから変えていこうと思っております。 ですから、私の元へ来ていただけませんか?」 今度は力が抜けて、へなへなと椅子に吸い込まれてしまった。 千尋は今、とても混乱している。 慶榎は千尋と一緒に居るために、自分を捨てた冷泉を継ぐと決めたらしい。 なぜ、と。 父を好いていながら、なぜ自分といる道を選んだのか、と。 そんなこと決まっている。 「…慶榎は、僕の身体のこと… 」 気づいていたのだ。気づかないふりをしながら、きっと彼は千尋が妊娠しているとわかっていたのだ。だから… 「ええ、存じております。」 座っている千尋の腹部に、慶榎は優しく触れて。 千尋はゾッとした。結局自分は慶榎を縛り付ける存在なのだと。こんなことまでさせて、本当に、なにになるのか。 「ごめっ、なさっ… 」 泣きながら千尋は机の上に置いてあった花弁に手を伸ばし、今度こそ本気で口に含もうとした。 自分にとって一番大事なのは慶榎だから。そして自分は慶榎を不幸にしてしまうから、消えなくちゃ。 しかしその手は慶榎の大きなふしばった手に止められて。 「千尋様は、私といるのが死ぬほど嫌なのですか…?」 悲しげに微笑まれた。ちがう。一緒に居たいから、こんなことをしてしまったのに。 「…慶榎は…っ、お父様がっ、好きだからっ…!!ほんとは、僕がフェロモンで強姦なんてしちゃいけなかったっ…!!ほんとはだめだった、のにっ…! 好きすぎて、耐えられなかったんだ…。慶榎の番として、慶榎のものとしてっ、死にたかっ…!!」 今慶榎はどんな表情を浮かべているのだろうか。流石に呆れられただろうか。それとも激怒しているだろうか。 「…そのような誤解をしていらっしゃったのですね。気づくことができずこんなにも傷つけて…。本当に、申し訳ありませんでした。 私がお慕いしているのはずっと千尋様だけです。お父様と関係を持っていたのは、それが千尋様といる条件だったからです。丈夫なαならどんなに抱かれても壊れないだろうと。」 子供に言い聞かせるように優しく告げられ、千尋の目からは大粒の涙がこぼれた。 謝るべきなのは彼ではない。 彼の言葉が本当だとしたら、結局千尋はいままでずっと彼を苦しめてきたのだから。そして彼のことを勘違いして、千尋は空回りしていたのだ。 「ごめんなさいっ…!!僕はっ、やっぱり慶榎と一緒にいる資格なんてっ… 」 ない、と言おうとした言葉を、人差し指で止められた。そのまま慶榎は机を避け、千尋の手をとり椅子の下に跪く。 トリカブトの花が、床に落ちた。 「千尋様以外、私にはなかったのですっ!なにをしても、貴方と一緒に居られるのなら、それで幸せだった!!それこそ命を捨てたっていいと、千尋様に印を刻んだとき、思ったのです!!だからっ…!! …だから、資格がないなんて言わないで。まだそばにいさせてください。これからずっと2人で、幸せになりましょう。 ずっと幸せにします。千尋様のことも、新しい命のことも。ですから、幾人にも抱かれたこの身体でも、愛してくださいますか…?」 そっと、触れるような口づけを手にされた。彼の言葉のすべてに感謝が溢れて止まらなくなる。 千尋は慶榎にありがとうの言葉を告げようと口を開けたが、涙が溢れて止まらなくて、ただ頷くことしかできなかった。 大切な人にこんなに愛されていたこと、今も愛されていることが、嬉しくて。 af94a1cb-d518-4d57-a595-5fec88eda9f2
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