第一章 月待ち 文政六年(1823年)

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「なんだ、旦那はお留守かね?」  挨拶もなしに戸口を開けたおせいは大げさに落胆して見せたが、その目は佐助に険しく噛付いてくる。流行の蝙蝠(こうもり)の柄が裾に舞っている、桔梗色の紗の単衣が玄人の粋好みだ。深川の料亭の女将で、未婚のまま店を大きくしているやり手だから、玄人には違いない。 「おせいさん、人の家で随分と馴れ馴れしくしなさるじゃねぇか?」 「お前さんこそ、旦那の留守に上がり込んでおいでだね?」  おせいは、左手に風呂敷包みを抱えていて、もう片方でほつれてもいない銀杏の髷を長く優美な指でなぞりながら流し目で歳若の佐助を見下した。佐助は佐助で、おせいがおとなしく櫛巻きにしていないところが、いかにも虎次郎の気を引く為で気に入らないから、あえて表情を変えずに見返してやる。  おせいはツカツカと土間に入ってくると、「ごめんなさいよ」と上っ面に言って、佐助の横に包みを置いた。コトンと硬い音がして、佐助の膝から尾白が結び目に鼻先を伸ばす。おせいが、その小さな頭に満足そうに目を細め風呂敷を解いていく。現れたお重の上から、先ず笹の葉で包んだものを取り出して、おせいは尾白の鼻先に差し出した。 「猫さんの分も、ちゃんと持って来ましたよ」 「にゃっ、にゃっ、にゃっ」  尾白がぴょんと佐助の膝から飛び降りると、おせいはしゃがんで土間に包みを開いてやる。 「旬のさんま、ですよ」  おいしいかぇと猫に語りながら、横目で佐助を窺う視線はあてつけがましい。むろん、相手にそう伝わらねば意味がないとばかりに、上から下まで佐助を眺め下すのだが、目に映る佐助の容姿に苛立ちは募る。髪結いへ寄ったばかりの、鬢付けの甘い香りが漂う黒髪に清々しい月代。縦絽の着流しに紗の帯を粋に着こなしている、澄ました貌は嫌味なくらい美男だ。すべらかな肌が見せ付ける佐助の若さを、『気に入らないね』と、おせいは憎々しく思う。小股の切れ上がったいい女と言われ慣れたおせいに一向になびかない虎次郎の隣で、いつも不遜な態度で気取っている若造。  その高慢な男の横顔が捨息吐いて眉根を寄せた。たちまち、おせいの防衛本能が警戒を促して目尻をいっそう尖らせた彼女の耳に面倒臭そうな声が届く。 「折角の心尽くしだが、すまねぇな」  框の上のお重にチラリと目線をくれて、扇子で懐を扇ぐ佐助には言葉ほどの気後れはない。 「虎次郎さんは今夜、あっしと出かけるンでさぁ。ご馳走が無駄になっちまう前に、持ち帰っておくンなせぇ」 「でまかせをお言いじゃないよっ!」  キッと佐助を見返したおせいの紅い目尻が凄みを増す。だが、佐助にはこれっぽちも響かないようで、すらすらと言葉が続く。 「嘘じゃございやせんよ。先だっての、おゆうさんの件で世話になった坊主をもてなそうって舟を借りてますのさぁ。今夜は二十六夜待ちですぜ、そちらさんもお忙しいざんしょ?」 「うっ……」  おせいが唇を噛んで言葉を飲み込む。おゆうと坊主。さすがにその二つの言葉は説得力があった。  虎次郎が、三年前の大火事で命を落とした妻・ゆうの小さな墓を、息を引取った最期の地に建立したのは二十日前。供養の読経は佐助の手配した伝通院の新米坊主。新米とはいえ徳川菩提寺の僧なら一般庶民には神々しい身分だ。当代切っての人気纏持ちの佐助ならではの采配だった。坊主に舟遊びとは生臭い話だが、佐助ならやるだろう。鼻白んだおせいが悔しさに口元を歪めると、勝負あり、と佐助の目が語った。  きりきりと唇を噛むおせいの背中にざっと人影が立って、その壁を割るひと際涼やかな声がおせいを呼んだのは、その時だ。 「おせいさん!」  はっと我に帰ったおせいが振り返ると、小花模様の大島紬を可憐に着こなした町娘が戸口の外にいた。その裾が少し乱れていて、走って来たのが知れる。
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