第一章 月待ち 文政六年(1823年)

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「おふうちゃん?」 「番頭さんが大口の注文が入ったと、大慌てでおせいさんを探していますよ」 「ええっ?」 「おやおや、繁盛な事で」  動転しているおせいを尻目に、佐助はお重を包み直しながらニタニタ笑う。 「流石の清十郎さんも一人じゃ仕切りきれねぇ。早く戻って、」      「お前さんに言われるまでもないよっ!」  佐助の言葉を奪ったおせいは包みを奪い取るや、戸口の外にいるおふうに向かい直り、くいっと胸を反らして自分より背の低いおふうを上から透かし見て言った。 「今夜、お母上のお墓でお世話頂いたお坊様を、お父上とこのいけ好かない若造でおもてなしするそうですよ。おふうちゃんも同席して、よっくお礼を申し上げたがよござんすよっ!」 「私、おせいさんのお手伝いを」 「いーえっ、お父上とご一緒下さいなっ!」  高飛車に言い放つおせいの険しい視線は佐助を振り返っている。そして、忌々しさを隠さない顔で「あっかんべぇ」と舌を出した。  戸口の外では、おふうの後ろに長屋の住人が大人も子供も集まっていて、みんな首を伸ばして面白そうに覗いている。その中の一人に、おせいはぐいっと風呂敷包みを押し付けると眉を吊り上げたままの愛想笑いで言った。 「つまらないものですが、皆さんで摘まんでくださいましな」 「まあまあ、評判の青華楼(せいかろう)の仕出しを頂けるなんて!」  店子達がお重に群がったのを尻目に、鼻息荒く襟妻を合わせ直したおせいはスタスタと戸板の上を渡って往来へと抜けて行く。忙しいなりにも艶っぽい後姿が長屋の木戸をくぐると、店子達が「ぷっ」と吹き出して軽口が含み笑いと一緒に弾む。 「今日は佐助さんの勝ちだね」 「おせいさんも、あと一押しが足らねぇんだ」  料理をつっつきながら茶化している彼らの横をそろりと通り抜けたおふうは、溜息をついてから佐助のいる土間の敷居を跨ぐ。 「すまねぇ、おふうちゃん……」  さすがに佐助も虎次郎の一人娘の前ではバツが悪い。十七歳の清楚な娘だ。最近はますます母親のおゆうに似てきている。目元の涙袋がぷりっとした優しい笑みが、萎れた佐助に注がれる。 「気にしていませんよ、佐助さん」  足元に擦り寄ってきた尾白を掬い上げて、おふうは佐助の隣に座った。ちりりん、と簪の鈴の音が佐助の耳に届く。  おふうは、昨年、奉公に出て、日本橋の大店橋本屋の勝手方として住み込みの身。その橋本屋に仕出しを届けた青華楼の使いがおふうにおせいの行き先を尋ねたので、心当たりにやって来たと言った。来て良かったわ、と続けたおふうは佐助に頭を下げる。 「私、少し時間を潰したらお店に戻ります。お坊様には、よしなに」 「おふうちゃんも一緒においでよ。それに、おせいさんにはハッタリをかましたまでで……、その、坊主は呼んでねぇし、虎次郎さんを誘うのも……これからの事で」  おふうは尻すぼみに消え入っていく佐助の言い訳に特段驚きもせず、笑顔のまま白く細い首を横に振った。それから戸口の外に視線を向けた彼女の心は、別の事に囚われているようだ。 「おふうちゃん?」  やはり気を悪くしているんじゃないかと心配な佐助が窺い見ると、おふうは俯き、ぼそりと話し出した。 「私ね、……佐助さんなら、母や私が出来なかった事が出来るのではないかと……」  何の事かと佐助が送って来る訝し気な視線を外して、おふうは部屋の中でひっそりと佇んでいる木台の上の位牌を見やる。つられて、佐助も視線を移した。 「母も私も父に愛(いつく)しまれています。けれど、……それでも父の意識の中心は、いつだって他にあるのです」    それが母親のものではない方の、古い一柱の位牌だと佐助も知っている。 「頼みます、佐助さん」  おふうが佐助に手を合わせた。 「佐助さんなら」  佐助なら、父にもう一度生きる理由を与えてくれるのではないか……。そう言葉にしてしまおうか、そんな迷いがおふうの瞳を潤ませる。  同時に、拝まれて驚いている佐助の困惑顔が、自分の行為の奇妙さを気付かせた。おふうはポッと頬を赤らめ、戸口の外に視線を泳がせて話の矛先を変えた。  「おせいさんは、あんな強情っぱりな振りして本当は凄く優しい人ですよ。女の私から見ても、可愛らしい人」 「知っておりやすよ」  衒いなくサラリと認めた佐助に、くすりとおふうが笑った。 「佐助さんは、父を好いて下さってる?」 「そりゃ、もちろんで!」  真っ向から突然に問われて、佐助はつい口を滑らせた。まずい!と思っても手遅れだ。柄にもない、失態に続く失態。自ら制裁を与えるつもりでピタンと扇子で額を叩いてから、おふうに頭を下げた。 「でも、あっしの一方的な……」   そう、佐助の片恋でしかないのだ。それは、重々承知だ。虎次郎はとんと、その気がない。鬼籍に入った恋女房一筋だ。  なのに、そんな父に横恋慕している男を、娘のおふうがどう思っているか……。申し訳ないやら情けないやらで、佐助はおふうと目が合わせられない。
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