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だが、おふうから告げられたのは、思いがけない言葉だった。
「諦めないでください、ね」
「……えっ?」
事態を飲み込めない驚きに占領されている表情で佐助が顔を上げた時、いきなり声が掛かった。
「なんだ、二人して?」
戸口の前に、虎次郎が立っている。薄墨色の着流しに藍鉄の袴。男らしい清々しい笑顔の優しい眼差しが、框に並んで座っている二人に注がれている。
「虎次郎さん!」
「お父様!」
話題にしていた本人の登場に、二人ともバツが悪い。だが、屈託のない虎次郎の表情で、それまでの二人の会話を聞いていないと分かってホッと胸をなでおろした。そんな佐助たちの狼狽をよそに、尾白はとうに土間に降り立って虎次郎の袴裾に頭を擦り付けてしている。
木瀬虎次郎は三十六で、佐助の一回りも年上だ。月代は伸びて総髪。きりっと太い眉の下、二重瞼の凛々しい眼窩は影を纏って鼻梁の高さを際立たせている。痩せてはいるが、骨太な体躯が鍛錬された筋肉で覆われているのを佐助は知っている。
おふうがさっと立ち上がって木桶に張った水に手拭いを通すと、入れ替わりに虎次郎が腰から刀を取り出しながら、佐助の隣に腰を下ろした。
「待たせたか? 上野まで行っていた」
「上野?」
「隣の長屋に端唄の師匠がいるのだが」
「よく三味が聞こえてきやすね」
応えた佐助は、少しムッとしている。師匠は年増の美人だと、聞いているからだ。稽古の為にだけ長屋を借りていて、どこぞの商人の妾らしい。漏れ聞こえる唄声が花街に通い慣れた佐助の耳にも艶っぽく聴こえるだけに気が揉めるのだが、それに気付くはずもない虎次郎が暢気に話を続ける。
「先だって往来で声を掛けられてな。尾白があちらでも世話になっておるそうだ」
「それで?」
「生徒の一人に腕のいい研ぎ師がいるというので紹介してもらった」
「研いでもらったンですかい?」
「ああ。俺の虎徹(こてつ)を褒めてもらったよ」
「そいつはよござんした」
急に和やかになった佐助の心情など知り得ない虎次郎は「そうだな」と曖昧な相槌を打つ。虎徹は、有名で人気のある刀だ。それゆえ偽物も多く出回っている。正真正銘と判じられても、虎次郎は苦笑いするしかない。出目が確かなのは、とうに知っている。無骨だが丁寧な仕事をする職人とのやり取りを思い出した虎次郎の目尻に、うっすらと皴(しわ)が寄った。
一方、佐助は三味線の師匠との話が色っぽい類いでなかったと気を緩ませた途端、おふうが手拭いで清める虎次郎の足先や脹脛に、つい視線が泳ぐ。触れてみたい、と喉まで言葉が出てしまいそうな己の煩悩に呆れる。この場で生々しい情欲は流石に気が引ける。ペシペシと扇子で額を叩いて気を入れ直した。
自分に向けられる煩悩の仄かな火種を全く知らない虎次郎は、さっさと部屋に上がり、正座して二柱の位牌に手を合わせた。それから、縁側の方に場所を移して座り直す。すっと空気が変わったのが、佐助やおふうにも分かった。虎次郎のスッキリと伸びた背筋から潔く刀を引き抜く腕が孤を描くと、ぎらりと光る刀身が一瞬にして異空間を作り上げる。
「なんだか、刀の感じが違うわ……」
おふうが近寄りたくないと言うほど、それは凄みを持った輝きだった。
「刃文がこんなに深かったンでやすね?」
逆に、佐助が吸い寄せられるように覗き込んで刀身に端正な顔が映りこむと、虎次郎は満足げに頬を緩ませた。
その研ぎ方は、実は、刃の切れ味を鋭くするのではない。寧ろ刀の実力を封印するものだ。だが、それを知らない佐助やおふうは、刃文が美しいほど相反する武器としての鋭利さに身震いをしている。
「虎次郎さん、構えておくンなせぇよ」
促されて、虎次郎はやれやれと言いながら庭に下りて、上段に構えた。
「やぁっ!」
振り下ろした刀身を次に逆に引けば、一陣の風が舞う。
「お見事!」
佐助が目を瞠って手を叩く。
キラキラ輝く瞳を真っ直ぐに向ける佐助の内心を読み取ったおふうは、視線の先の父の姿を眺める。明るい陽光が、微笑む父の横顔を照らして、こんなふうに穏やかな時間を、父が受け入れている事が嬉しい。佐助の存在が父に変化をもたらした影響として大きいのだと、つくづく思う。
三年前、炎に焼かれた母・おゆうを火中から救い看取ったのが、火消しの佐助だった。それから、彼が自分たち父娘と親しくなるにつれ、父の笑顔が格段に増えた。最初はやんちゃな甥っ子のようだと佐助を評した父だが、今ではその父を一番理解しているのは十三歳年下の、この纏持ちだ。
でも……朴念仁の父がそれに気付いているかは怪しいものだわ、とおふうは溜息を漏らす。
粋でイナセな色男、『な組の佐助』と聞けば江戸で知らぬ者ない人気者。その火消しが足繁く通って来る真意を知らないのは当の父だけだろう事は、他の店子の様子からも明らかだ。おせいが虎次郎への好意をあからさまにしてからは、先程のような攻防戦が店子の娯楽にさえなっている。渦中の人なのに、全く気付いていない父が疎すぎて呆れるほどだ。
(佐助さんもおせいさんもお気の毒。とはいえ、娘としてはどこかで安堵している、母を忘れていない父を……)
穏やかな日の光に煌く刀身の硬さに父の清廉さを見る気がして、おふうは二人に気づかれないよう少しだけ視線を部屋の中に戻した。背中に仄かに感じる温かさは、以前同じように父の鍛錬を眺めていた母の微笑みと重なった。
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