第一章 月待ち 文政六年(1823年)

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 母の位牌に手を合わせたおふうが、橋本屋に戻ると言って長屋を出て行った頃合に、漸く佐助は切り出した。 「虎次郎さん、今夜、ちょいとお付き合い頂けやせんか?」 「何か、あったか?」  虎次郎の左眉がピクリと動く。 「いや、キナ臭ぇ事じゃございやせん。船遊びでもしながら月見を、と」  少し照れながら誘う佐助の視線をさりげなく外した虎次郎は柔らかな表情を、硯箱を見やる横顔に宿して言った。  「折角だが、赤沢屋から番所への訴状を頼まれている。明日には届ける約束だ」 「それなら夜半の月には充分間に合いましょうや。ねっ、虎次郎さん、美味い酒もございやすから」 「月より酒より眠る時間が惜しい歳だ。すまんな、佐助」  のらりくらりと、結局断られた。   騒がしいのが苦手な男なのは知っているが、こんな時でもなければ『波間に揺られて差しつ差されつの思い差し』など気取れねぇ、と大枚はたいて船を用意した下心付きの目論見は泡と消えてしまった。  佐助は溜息混じりに重い足取りを、独り盛り場へと向ける。一声掛ければ吉原や深川の芸者が我先にとやって来るだろうが、女とはすっぱり切れたつもりで二年だ。  かといって、な組の連中を呼び出したりしたら、『意中のおなごに袖にされてのおこぼれか』などと荒っぽくからかわれるのは目に見えている。癪だが、手酌酒で白波に揺られるしかあるまいと、不貞腐れの態で東両国の料理屋・青柳の店先に着いた。   両国橋は東を武蔵国、西を下総国とする国境を流れる隅田川に架橋されている。幅四間、長さ百八間。橋詰や川岸には茶屋が軒を並べ、冷素麺や蕨餅、西瓜に寿司に天ぷら、冷水などの飲食店の他に軽業師や見世物小屋が建ち、江戸随一の盛り場だ。夏場は川開きから連日花火が上がり、納涼船が川面を塞ぐ。屋形船も大入りだ。  だが、男達の笑い声も女の嬌声も流行の歌や三味や太鼓も、今の佐助には虚しい。  単身で現れた佐助に青柳の番頭は、あれ、どうなさいましたと目を丸くした。佐助はしれっと小指を立てて、すらっと早口に言い訳をした。 「なに、のっぴきならねぇ急用だとよ。今夜は一人だ。料理の予定分は払うから、船は出しておくンな」 「それでは興がない。芸者の一人、お付け致しましょう?」 「背の君の悋気が強くて、面倒臭ぇ。手酌でいいや」 「はぁ……。では、こちらからお船に」  柱四本に低い屋根がかかる小船は、料理屋の裏手に繋がれている。佐助は店の中の土間を番頭の後から付いて行くが、どうにも気乗りがしない。知らず深い溜息が漏れる。  その背中に、のっぴきならない様子の声が店先から届いた。 「どうにか一艘設えては貰えまいか? 日よけ船で良いのだ。某(それがし)の首を繋げてくれ」 「申し訳ございません、お武家様。お船はもう全て出払っております。他のお店を」 「どこの店もそう申しておる。青柳ほどの大店なれば、如何ようにならぬか? 頼む!」  金子(きんす)ならここに、とジャラジャラと鳴る小巾着袋を若い手代の掌に掴ませて頼み込んでいるのは、言葉の端々にお国訛りが伺える事から江戸に来て間もない勤番の武士だろう。 「首がどうのこうのとは、物騒なお話で」  朗々とした涼やかな声に、はっとした侍は手代の肩越しに視線を向けた。店の奥から現れた声の主は長身の上、冴えて輝く月の如くの美貌だ。その容姿に侍が目を瞬いていると、さらに驚いた事にその町民は正に助け舟を渡して寄越したのだ。  「なんなら、船をお譲り致しやしょう」 「まことか? それは忝い!」  侍は手代から巾着を取り返すと、佐助の手にそれを掴ませる。 彼のきらきらと光る大きな瞳を見て佐助は、二つ、三つ年下か? と推し量った。大方、上役に納涼船を探せと突然に言い付かって来たに違いない。江戸勤めの洗礼というところかと、佐助は相手の身の上を踏んだ。 「金子は収めておくんなせぇ。丁度、連れが来ねぇんで料理も酒も無駄にする所でやしたから、こっちも助かりやす」  金を受け取らずに去ろうとした佐助は、すれ違い様に左袖を掴まれた。振り向くと、素朴さに人の良さが出ている侍の目が、まっすぐに佐助を見つめている。 「助かった! まこと、助かった! せめて恩人の名を聞かせてくれ」 「おやめなせぇ、旦那。利があるのはお互い様。あっしも格好がつかねぇところでやしたのさ」 「しかし……」  佐助は侍の手から、すいっと袖を引き出した。笑みを乗せた切れ長の瞳が孤高の月のように艶やかで、給仕の女たちが行きかう場がざわめく。それを知ってか知らずか、佐助は右手の手包丁で首を叩いて言った。   「ここが繋がったままで、何よりでさぁ」  そして、さっと踵を返して、あっという間に涼み客で賑わう往来に姿を晦ませた。その後ろ姿に女中達が恍惚とした溜息を漏らす中、侍は番頭に訊いた。 「あの町人の名は?」 「な組の佐助さんでございますよ。評判の纏持ちで」 「火消し、か? 美男だな」 「市村座の千両役者も霞む勢いでございます。お相手がどなただったのかと、お目にかかれず残念でございます」 「かような伊達男を翻弄するとは、江戸のおなごは怖いよのう……」 「ははは、それも一理。ところで、そう仰るお武家様のお連れは?」 「そうであった! 上役二人と芸者だ。よしなにな。某は外で、お帰りを待たせて貰う」  上役たちを呼ぶため若侍は、打ち上げ花火に湧く往来へ威勢よく跳び出て行った。 
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