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第一章 月待ち 文政六年(1823年)
「虎次郎(こじろう)さん、よござんすか?」
長屋の軽い戸口をさっと引き開けた佐助は、長身の腰をすっと落として土間に入った。緊張が足の裏まで走る。草履の鼻緒がきゅっと食い込んで足の指が固い土間を掴んだ。
だが、期待していた部屋の主の声は返ってこない。対面の障子は開け放たれていて、四畳半の向こうは小さな庭と盛夏の濃い青空が広がっているだけで人影もない。拍子抜けの佐助は右手で後ろ首を擦った。じっとりとした汗が、落胆と同時に一抹の安堵を得た自分の意気地のなさを詰っているようで、しゃっきりしない。項垂れる寸前で、佐助の耳に馴染みのある可愛らしい声が届いた。
「うーにゃうん」
麻の葉模様が擦り切れている枕屏風の影から、灰色の小さな猫が長い尾を立てて三角の顔を覗かせている。途端に、佐助の切れ長の双眸が緩んだ。
「おや、尾白(おじろ)かい?」
屏風の奥には虎次郎の夜具が畳んである。その上で、猫は昼下がりの惰眠を貪っていたに違いない。
(虎の方は留守か……)
戸口を閉めた佐助は、ふぅと溜息を吐いて框に腰を下ろした。
「うーにゃ、にゃ」
尻尾の先だけが蝋燭の灯火のように白いので尾白と名付けられた猫が、薄花桜色の万縞の着流しの背中に頬を擦り付けて甘える。
「すまねぇな、今日は土産なしだ」
謝罪は受け付けぬとばかりに甘えてグイグイと頭を擦り付けてくる尾白を、佐助はひょいと持ち上げて膝の上に抱いた。
「よしよし」
顎の下を掻いてやると、ぐるぐると尾白は喉を鳴らす。猫の相手をしながら目を向けた炊事場は、いつもながらきっちり片付いている。部屋も塵ひとつなく、「やもめ」の一人暮らしとは思えない清々しさだ。家具と言える物は、夜具を隠す枕屏風と柳行李がひとつ。部屋の西側には小さな木台があり、位牌が二柱置かれている。その木台の下には黒塗りの文箱と硯箱。
佐助からホッと安堵の息が漏れる。位牌と文箱。その存在が佐助の胸騒ぎを落ち着かせてくれる。この家の主がここに戻ってくると、それらが教えているからだ。
佐助の細い帯からのぞいている物に気付いて、猫がしきりに前足を伸ばしてくる。
「なんだ? 扇いで欲しいか?」
佐助が一振りの扇子を開いて、そよそよと風を送ってやると尾白は更に四肢をバタつかせてじゃれ始めた。
「なんでも遊び道具にしなさるねぇ」
目を丸くして輝かせている猫の仕草が可愛くて、佐助はちょいちょいと鼻の頭を掻いてやる。
「にゃあぁん」
甘えた声を返した尾白が、瞬時、ピクリと身構えた。キリッとした野生の顔に戻った尾白と同じ目で佐助が耳を澄ませると、女物の履物が長屋の下水戸板の上をカコカコとやってくる。キラリと光った尾白の瞳が元のまん丸な可愛らしさに戻った時、佐助の喉から興醒めの溜息がもれた。そして、いきなり戸口が開いた。
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