ACT7.夏休み 前編

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 「杏」  呼ばれて顔を上げるとすぐ近くに智彦の顔があって、あたしは驚いてのけ反る。  智彦はふっと微笑んで「ありがと」と言った。  身体を戻して、暮れかけた窓の外を眺めながら小さく話し始める。  「自分でも、高校に入ってからすごい変わったなって思う。  僕は中学時代、人前で何かするって超苦手で、学級委員とかもやったことなかったんだ。  身体も小さくて細いし、肌や髪の色も薄くてなまっちろい感じで、外見にコンプレックスがあった」  「去年、小野寺さんの芝居をW大で観て、僕もこんな風に何かを演じてみたいって思った。  小野寺さんと一緒に芝居をやりたくて、この高校に来て、杏に会った」  あ?あたし?  なぜ突然、あたしが??  智彦は顔を傾けてあたしを見て、そっと笑う。  「杏も全然自分に自信なさそうだった。  何でかなって思ってたら、お姉さんの存在を知って納得した。  だけど、小野寺さんに引っ張られる形ではあったけど、杏はめきめき実力を現し始めた。  杏がすごくカッコよく見えて、負けてられないって思ったんだ」  え…  あたしは話の内容が意外過ぎて、言葉を失う。  智彦は手を伸ばして、あたしの髪を撫でた。  「杏はもっと、自分に自信持っていいよ。  僕を始め、演劇部の人たち皆、杏の力を評価してる。  クラスの友達だってそうだよ」  あたしは智彦の言葉が嬉しくて、涙ぐみそうになって下を向いた。    「ねえ、…杏はさ、小野寺さんのこと…ずっと好きなんだろうけど。  他の男に興味持つことはないの?」  「え…」  顔を上げたあたしは、智彦の真剣な瞳にぶつかって、何故かうろたえる。  「小学校時代の友人から告られて、好きな人がいるからって断った話は聞いた。  だけどそれは、彼を友人としてしか見たことがなかったからでしょ?  今は、どうなんだろうって」  あたしは突然の質問に狼狽し、智彦から視線を外して窓の外のあらぬ方向を見る。  駅のロータリーにはバスを待つ帰宅する人の姿が増えてきている。    「い、今は…判らない。  他の人を好きになるなんて考えたこともないし。  あたし、もう帰らなくちゃ」  急いで言って立ち上がる。  智彦はしばらく黙って片づけをするあたしを眺めていたが、やがてため息をついて「…そうだね、引き留めて悪かった。このノート読んどいてくれる?」と閉じたノートを差し出す。  「あ、あたしまだやるとは…」と言いかけると「読むだけでいいから。意見がなければそれで構わない」と言ってあたしの手にノートを押し付けた。  駅で別れてあたしは一人で電車に乗る。  電車から見た窓の外に、反対側のホームに佇む智彦の姿が見える。  はっきり聞いたことはないけど。  瑠香ちゃんは、智彦が好きだと思う。  でも智彦は…  ダメだ、これ以上考えちゃ。  これまで通り、何でも話せる仲のいい友達でいなくちゃ。
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