Pupa

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 夜の散歩は僕のただ一つの趣味だ。  昼間は学校やらなにやら色々あるという事情もあるけれど、僕には夜という時間の方が性に合っている、そんな気がする。  一番初めに僕に夜の散歩を教えてくれたのは、姉だった。まだ三歳かそこらの僕の手を引いて、暗い街角や川の土手、公園、時には裏山の奥まで連れて行ってくれたものだ。いつも姉の纏っていた白い洋服が月の光を受けて青白く輝いていたことを、今でもありありと覚えている。  今にして思えば、姉は生まれ付いて夜の住人であったのだろう。体が弱くて学校にも行っていなかった姉だったが、夜の空間の中では生き生きとしていた。夜の姉はなんでも知っていたし、昼間は絶対見せない満面の笑みを浮かべていた。  子供は太陽の下で元気に遊ぶものと思い込んでいる方々には悪いが、姉と僕の場合は夜の方が絶対に子供らしかったと思う。僕は、太陽の光で生きている生物があるように月の光で生きている生物がいるのだ、そして姉こそがその生物達の筆頭なのだ──そう信じていた。  一族の者達が僕らのことを知っていたかどうか、定かではない。しかし、夜な夜な子供達が家を脱け出してあちこち歩き回るのを、判らなかったはずはないだろう。多分、皆知っていたのだ。姉が夜の中だけでしか生きられないことを。  そんな姉も今はいない。僕が小学校に上がるか上がらないかという頃、決して目覚めない眠りについてしまった。  姉がいなくなっても、僕は夜の散歩が止められなかった。一人で月光の射す道を歩き、誰もいない公園や河川敷で遊んだ。眼には見えないけれども、そこには確かに姉の存在が感じられた。だから、寂しくはなかった。  こんな趣味が一族以外の者に受け入れられるとは子供心にも流石に思わなかったので、この夜の散歩は誰にも秘密だった。たまに夜回りの人や酔っ払いに見つかって叱られることもあったが、「寝ぼけていた」で通した。  学校では僕は「夢遊病の気がある変わり者」で通っていていじめられていたこともあるけれど、僕からすると他の者の方が気の毒だった。夜という空間の、あの美しさを知らないなんて。月があんなに明るいことを、昼間には絶対にない密やかな空気を、皆は知らない。  中学生になっても高校生になっても、僕の趣味は続いた。  大学生になった今では、多少不審な眼で見られることはあるとは言え、最早誰にも何も言われることはなくなった。……だからというわけではないが、コンビニに寄って缶チューハイを一杯やる、なんてこともするようになったけれど。  その夜も僕は、いつもの散歩にいそしんでいた。  散歩のコースはいつも同じではない。気分によって街中を歩く時もあれば、公園を歩く時も、誰もいない大学のキャンパスを歩く時もある。だけどお気に入りの散歩コースというものはあるもので、街の中に忘れられたようにひっそりとある公園はその一つだった。  適当に緑があって、こんなに外れた場所に来る物好きなカップルもいない。眠る木々の夢から昼間遊ぶ子供達の残した思いまで、全てを感じ取れる気がする。  かさり。  音がした……ような気がした。  振り向くと、一本の樹。その下の茂みをこっそり覗き込む。もしも誰かがお取り込み中なら、こっそりその場を離れられるように、出来る限りに気配を殺して。  そこには。  一人の若い女性が胎児のように体を丸めて、地面の上に寝転んでいた。眠っているんだろうか? でも、こんなところで女の子が野宿というのも考えにくい。 「何をしているんですか?」  僕は彼女に声をかけた。彼女は僕と同じくらいか歳下のようにも見えたが、どんな相手でも汚い言葉を使ってはいけないというのが普段の僕のモットーだ。悪い言葉は悪いモノを呼ぶ。特に僕みたいな家系に生まれた者は、気をつけないといけない。  僕の声に反応したのか、彼女はぱちっと目を開けた。黒目がちの大きな瞳。 「あの、何をしてるんですか?」  僕はもう一度訊いた。 「さあ」  そっけない答えが返って来た。 「そっち、行っていいですか?」  僕は重ねて尋ねた。答えを聞かないうちに茂みの中に入って行く。僕は彼女の傍らにすとんと腰を下ろした。 「物好きなのね」 「はい、良く言われます」  僕はにっこりと笑って答えた。好奇心は強い方だと思う。  そのまま僕は、しばらく黙って夜の中に身を浸していた。彼女も何も言わなかった。沈黙の中に、夜の時間が流れて行った。僕にとっては何よりも優しい時間なんだけど、彼女にとってはどうなんだろう?  その夜はただそれだけの時間を過ごした。  翌日の夜。  僕は再び彼女がいた場所に向かった。彼女は昨日と同じように、茂みの奥に横たわっていた。目立たないところだし、誰もこんなところに彼女がいるなんて気づかないだろう。僕は彼女に微笑みかけた。彼女はちらりと僕を見た。 「また来たの?」 「はい」  僕は彼女に近づいた。 「本当に、物好きなのね」 「ええ、そうなんです」  見上げると、木の枝と雲の合間から月の光が射している。今宵の月は十三夜……いや、十二夜くらいかな? 彼女が口を開いた。 「訊かないの?」 「何をです?」 「どうしてあたしがここにいるか」 「無理に訊いても、気を悪くするだけでしょう?」  月の光の下で見る彼女は、とても綺麗だった。素直にそう思った。もしも彼女が笑顔になったら、もっと綺麗になるだろうに。 「……もう、あのひとの名前すら覚えていないわ」  独り言のように、彼女はそう言った。 「でも、確かにあたしはあのひとを愛していた。あのひともあたしを好きだと言ってくれた。幸せだったのよ、あの時は、確かに」 「美しい時間を記憶していると言うことは、いいことです」 「そうかしら? あのひとがあたしを捨てた今、そんな記憶は苦しいだけだわ。だからあたしはここでこうしているの。木々や草があたしの記憶を吸って、全てを土に還してくれるように。あのひととの思い出を地中深く深く、誰にも掘り返せないほど深く沈めてしまうように」  さわさわと緑が揺れた。彼女の言葉に優しく応えている。 「君は、さなぎなんですね」  僕は思ったままにそう言った。 「さなぎ?」 「ええ。虫のさなぎです。いつか殻を破って綺麗な羽を広げるために、今は眠っているさなぎです」 「そんな大したものじゃないわ。もしそうだとしても──羽化するのは綺麗な蝶なんかじゃない。三日しか生きられないカゲロウに決まってる」 「それでも、いいじゃないですか。カゲロウだって充分綺麗です」  彼女は何も言わずに、白い顔を伏せた。僕は立ち上がった。 「きっと羽化出来ますよ。……次の満月には」  満月の夜は三日後だった。  その夜の月は本当に冴え冴えとした光を投げかけていて、こんな夜は夜歩きにはうってつけの日だ。歩く足取りも軽くて、本当に滅多にないほどの最上の夜だった。  いつもの公園に行くと、彼女の姿は見えなかった。僕はいつも彼女が横たわっていた場所にそっと手を置き、かけていた眼鏡を外した。 「……さあ、羽化の時間だ」  僕はしばらくその場にたたずんで、何か変化が起きるのを待った。  と。  地面がぼこり、と盛りあがった。地中から白い手が覗いた。手は土をかき分け、その後から頭が現れた。黒く長い髪。ずるり、と体がはいあがる。泥にまみれていたが、白い肌をしていることが判った。  顔を上げた。彼女だった。  彼女はすっと立ち上がった。しなやかな体が月の光に映えた。ゆっくりと、その背から透明な虫の羽が伸びて行った。 「羽化、出来ましたね」  僕は彼女に語りかけた。──とは言っても、もう彼女は僕のことも判らなくなっているだろうけれど。 「今宵は飛び立つにはちょうどいい夜ですよ。ほら、月があんなに綺麗です」  彼女は羽を伸ばしきると、柔らかく羽ばたいた。足が離れる。夜という優しい空間に、彼女は軽やかに飛び立って行った。羽ばたくたびに月の光が羽に反射し、キラキラと輝く。なんて美しいんだろう。こんなに綺麗なものを見ることが出来たのは、僕より他に何人いるんだろう。  やがて彼女は何処か空の彼方に飛び去って行った。何処に行ったのかは僕にも判らないが、きっと彼女が元いたところよりいいところに違いない。  僕は彼女が立っていた場所に目を移した。……そこには、元彼女だったもの──土の奥深くに埋められ、すっかり白骨化した彼女の肉体が残っていた。それは僕の目の前でガラガラと崩れ、ただの骨の山となった。その骨さえも、この夜の中では美しいと思えた。 「……さて」  僕はおもむろにその場を離れた。今から警察に連絡して──もちろん僕の名前なんかは出さないが──彼女を引き取ってもらわないといけない。彼女にだって心配してる人の一人や二人、いるだろうし。  全ての記憶と想いを浄化し、彼女はやっとあちらに行くことが出来たのだ。何だかホッとしてるのは、きっと彼女がほんのちょっとだけ姉に似ていたからだろう。  あんな綺麗なものが見れるのだから、本当に夜の散歩は止められない。  公園入り口の公衆電話の受話器を置いて、僕はもう少し、夜の散歩を続けることにした。
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