理子は赤信号を渡らない

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 私は赤信号を一度も渡ったことが無い――と言ったら、聞いた人に驚かれてしまうだろうか?  私、佐藤理子(さとうりこ)は超が付くほど慎重な性格。つまりビビりである。過保護な両親から溺愛されて育ち、危険な物事には絶対に関わらないように生きてきた。子供の頃に両親から「渡っちゃいけないよ」と言われた赤信号の約束も固く守ってきた。いくら他の子どもが、道路と車の様子を見つつ信号無視をしていたとしても。  菌が付くと危ないので死んだスズメを触ることも無かった。学生時代は他人を傷つける危ない性質のクラスメイトには絶対に近づかなかった。  もちろん、女の子にとって一番危険なもの――男の子、すなわち恋をすることも無かった。  そんな私も大人になり、普通の会社員になった。  本当は安定した公務員になりたかったのだけれど、成績……つまりやむを得ない事情がありそれは叶わなかったのだ。  私の勤めている会社には、当たり前だが上司がいる。女性関係にだらしないという噂をよく聞いていたので、近づくことは無かったけれど。  ある日、その上司……高橋課長と二人で残業する機会があった。特に警戒する必要もないと思った。なぜなら、私はとても地味な女だったから。ああいう軽薄な男性は、真っ赤な口紅を職場につけてくるような華やかな女性を好きなはずである。  仕事を進めるうちに、分からないところが出てきた。私は仕事もそこまで出来る方ではない。こんなときはどうしたらいいのか。 「あの……課長、すみません」 「ん?どうした理子ちゃん」  いい年の女性社員を「ちゃん付け」で呼ぶところも好きでは無かった。しかし社会人が私情を理由に仕事で分からない箇所をそのままにしておくわけにもいかない。 「お手を煩わせて申し訳ないのですが、その、少し質問したいことがありまして」 「あはは!相変わらず固いなあ理子ちゃんは。俺が頼りになれることだったらいくらでも聞いてよ」  そう言うと真っ白な歯を見せて課長は笑う。まるで歯磨き粉のCMみたいな白い歯だな……と思った。中年なのに。整髪料で整えられた清潔感のある髪と、少年のような笑みは確かに女性ウケが良さそうだ。課長の目の前の一人を除いて。  課長は真摯に仕事を教えてくれた。他の女性社員と楽しそうに話しているときには絶対に見せない表情だった。課長は仕事が出来る。パソコンのモニターの前で教わっているうちに、花のような匂いが鼻腔をくすぐった。課長の整髪料の匂いだ。  二人で残業したその日から、課長は前よりも私に目をかけてくれるようになった気がする。仕事で分からないことがあったときは、真っ先に課長に質問をするようになっていた。仕事に対しては真面目な人なんだよね、これでチャラくなければ良かったのに。  ……? 私は一体何を考えているのだろうか。
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