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桜散る。
そんな季節だった。
随分と遠い所まで来てしまったものだ、自分は。ここがどこで、どの時代かなんて、もうどうでも良いことだった。
遥か水平線の彼方には薄れてゆく思い出といとおしさがわずかにある故郷が、あるのかもしれない。
例えるなら、ふと死にたくなるような瞬間。それは、このようなものだろう。
あの頃の粉雪の世界のように、今、目の前は白い花びらで埋まっているのだろう。
「綺麗ですね。」いつの間にか後ろに人がいることに気づく。この丘には毎年山桜が咲く。ひっそりと、地元の人間しか来ないから山道も荒らされていない。そんな場所に来る人が自分以外にもいたのだ。
幾分低めの声は、けれど艶があり後ろの人物がまだ歳若いことを示していた。
「ええ。いい香りです。」私は座っていた椅子の傍らを空け、男に示す。男は、ゆっくりとした足取りで私に近づき、腰をかけた。
「香りが、…ああ、確かにしますね…」
男は、しばらく無言で眺めているようだった。
「昔…約束をしましてね。探すのに随分と時間がかかってしまいました…」男は呟く。
「ここは…あまり知られていないから、探すのは大変だったでしょう。」ここ最近、この近くに住んでいる私以外、ここに来る人間は村の人間だけだ。
「けれど、約束しましたから。…その人は、いつもヒントだけしかくれないんです。」
「随分、意地悪な人ですね。」こんな山奥など、探さなければわかるまい。まして、地元の観光案内所にだって、わずかにしか載っていない。
「いいえ。…はい。確かに、そうなのかもしれません。けれど、私を信じてくれているんです。いつでも、どんな時でも。」だから、男にはいつもヒントだけしか与えないのだと。男にヒントを与えた人間は随分と、
「あなたを信頼していたのですね。」ざぁ、と風が吹き花びらが頬をかすめていく。
「そう、思われますか?」男の声の高さが少し、変わった気がした。
「……少し、思い出しました。昔、変わった子供がいました。どこからともなく現れて、消えていく、まるで雲のような少年でした。」そして数少ない私の言葉をまるで心を読んだかのように理解して、私に暖かさだけを与えて行った。
「少年は、どうなったのですか?」
「さぁ。死んだのかもしれません。何せ、戦中のことでした。……我が国が敗戦する数ヶ月前の話しです。」
「随分、冷たいのですね。」男の声が、幾分か怒っているように聞こえた。
「…そうですか?けれど、私は満足しているんです。あの時、一つだけ願いが叶ったのだから。」
「願い?」
「ええ。…信じるも信じないもあなたの自由ですが…私は一つ、願い事をしたのですよ。」隣の男が椅子の上で身じろいだ。
「この『眼』と引き換えに、彼の命を救って欲しいと。…自己満足ですが、敗戦後しばらくして突然、私の『眼』は見えなくなりました。だから、彼が生きているのではないかと、そう思います。」それがあの時の私にできた、最後の『奇跡』。後悔はしていない。
男の息を呑む気配がする。
やはり唐突だったか。笑われるだろうか。それでもいい。私はあの時に確かに願ったのだ。『彼』が助かるようにと。
ふいに、息をはく音がした。
「桜。」イントネーションが違う。これは、木の「さくら」ではない音。
「…あなたは…」私は見えない男に向かって目をこらす。
「桜!」突然、肩を掴まれる。思った以上にがっしりとした大きな手だ。思わず手を触り、肩へたどってそこで一つ金属に触れる。指先だけで、それが何の形をしているかわかる。
民間人では手に入らない金属のバッチ。それを縫い付けたマント、そして、襟元にも同じようにバッチが。
つまり、彼は軍の関係者。
「失礼…」思わず離そうとした手を掴まれ、彼の頬に指先を触れさせられる。
なめらかな肌に一つだけ大きな傷。右目から頬にかけてのそれ。
「…………陵。」四年ぶりに口にするその名前。真っ白い雪に倒れた、彼と彼の血の赤。それだけが私の最後の記憶。
「お久しぶりです、葵上級特務中将。」
「誰のことを言ってるか知らないけど、何か…用ですか?」彼が、本当に私の知る―あの少年なのか、まだ確証が持てなかった。声だって幾分か低いし、随分と身体も大きい。成長したにしては随分変わった。
ふいに男が動く。
私の喉に冷たい感触―これは、ナイフ。
「腕が、落ちたようです―――――。」男が静かに言う。
「お互いにな。」私の手は彼の胸元にある。得物は何も持っていないが、これがどういう意味かは彼が陵ならばわかるはず。
お互いに姿勢をもどし、私は彼に向き合う。
「四年ぶりか、咲坂上級准尉中将補佐。君が、こんな所に来るとは思わなかった。」皮肉にも彼を彼と認めることができたのは、私が既に忘れ去ろうとしていた空気を感じたからだった。
殺伐とした、戦の気配を。
「あなたを迎えに来ました。」
「今更、私に何の用だ?『奇跡』はもう二度と起こらない。ようやく追跡の手から逃れられたんだ、こんな年寄りは放っておかないか。」本当に今更だ。
今更私は彼が来てくれたことに喜びを感じ、今更彼に必要とされることに歓喜している、恥ずかしげもなく。何という愚かさ。彼が必要とするのは私ではなく私の『力』だというのに。
そしてそれすら、今は満足に使えやしない。こんな半端者に今更何の用だというのだ。
「誤解されているようですね。あなたを迎えに来ました。私と共に生きて欲しい。」
「無理だ。私は軍には戻らない。」
「…ふっ…ですから、誤解です。約束を守ってください。」彼の方が年下だというのに、余裕のある笑い声が癪に触る。
「約束?」そういえば、彼は約束をしたのだと言っていた。
いつもヒントしか与えなかった。それだけで彼は必ず私の答えがわかるから。だから、それだけで十分だった。
『桜さん、ずっと一緒にいたいです。』
『そうだなぁ、私が姿を消してしまって、それでもお前が私を見つけられるのなら、お前に捕まってもいいかな。』
『本当ですか!?』
『ああ。』彼もまた、離れていくのだろうと幾多の人たちを見送った私は簡単にそう考えていた。
「…………あれか。」つい、今しがたまで忘れ去っていた過去。明日にでも儚くなる死線の境で、ただ私という存在を認め、求めてくれた彼。
「ええ。約束は守ってください。」その力強い声に、随分と時間が過ぎてしまったことを感じた。
「では、まずは四年もかかった理由から聞こうか。」私は嘆息すると、彼を促した。
ひっそりと、ただ一人で朽ちてゆくはずであった私がどういうわけか、また彼と出会った。
「偶然というのは、必然であり、必然とは、作為的なものである、とおっしゃったのはあなただ。ならば、この四年も私にとっての必然であったと言えば?」相変わらず、口だけはよく回る。
「何のために?」何故かこの歳月が彼をひどくねじ曲げてしまったように思えて仕方が無い。随分と、彼に夢を見ていたのだな、私は。
彼はそっと私の頬に指を触れる。冷たい指先は、少しかさついていた。
「あなたが、私に絆されてくれるまでの時間です。」
「………随分と、ひねくれたものだ。」では何か、彼は四年もの間、私が彼に諾と言うのを待ったというのだろうか。
そして、今ならば私が彼の意思に沿うと。
「考えたんです。あなたを手に入れたい人間は多かったですから。これでも必死でした。ですから、もう――――」
彼の息が私に触れる。
「逃がしません。」そうして、私は約束通り彼に捕まった。
「桜が散るな………」名残惜しいのはいつもの事。新緑も美しく私を楽しませてくれるだろう―いや、私たちを。
「次の桜は一緒に見ましょう。次の次もずっと、朽ち果てるまで。」背後から抱えられる。あの頃は私の方が背が高かったのに、いつの間にか追い越されてしまった。
「お前はロマンチストだな。」でもそれが本心なんだろう。どれだけ汚れようとも変わらないその高潔な心が、私を捕らえて離さない。そんなことは、口にしないが。
「あなたの前でだけね。」二人で広げた指先に、白い粉雪が舞うように通り過ぎた。
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