14人が本棚に入れています
本棚に追加
自覚
顔があげられないことがある。
どうしようもない恥をかいたとか。
情けないものを見られてしまったとか。
弱みを見せたんじゃないかとか。
その三つが同時に来てしまったのだ、翌日の朝食を食べるときは秋山は顔をとてもあげられなかった。
凛子もそんな秋山に気を使っているのかわからないが、何も言わない。
ただもくもくと食べている。せめて笑ってくれたら、感情が高ぶって何もないのだが。
外はまだ雨が降っている。だいぶ雨がおさまってきているが、もう一回はひどいものが降りそうな、不穏な雲行きだった。
女の首には銀のわっかがはまっている。彼女の行動を封じるための拘束具だ。それの取り扱いは、秋山の制服のポッケにはいっている。
秋山は音を立てないように卵焼きを食べた。声が小さく漏れた。
まただ、兄に作ってもらった料理と同じ味がする。だが、なぜ凛子の料理から、同じ味がするのかわからない。
兄がいなくなったのは、正確には十四年前。兄の年齢は今の自分と同じ二十四の時だ。その頃、凛子はおそらく十五。接触がなかったとは言えなかっただろうが、兄はそんな若い子と話すことはあったのだろうか。工場勤務で夜勤もたびたびあったのに。
その件を聞かなければいけないと思いながら、味噌汁をすすっていると、電話が鳴った。
ここに電話をかけてくるのは、管轄区が違う仲間に違いなかった。
「こちら登録番号、172839 中央区治安部隊所属秋山慎次郎巡査長です。お待たせしました」
電話の相手は登録番号を口早に言ってくる。相手の番号には聞き覚えがあった、蓮河原だ。
「秋山巡査長、早速なんですが、救援のことです」
「はい、どうなっているでしょう」
蓮河原は歯切れの悪そうな声で言った。
「それが早急に救援に向かいたいのですが……雨の影響がひどく。逆に言えば雨さえ上がればどうにかなるという状態です」
「そうですか……」
何故だろう。秋山は電話を見下ろしながら、耳に入り込んでくる蓮河原の声を聞きながら、不思議な心持ちだった。
この閉じ込められた環境が終わる可能性を感じて、嬉しいというより、少し残念だったのだ。
山を降りられれば自由になり、またいつもの日常に帰れるのに何故だろう。
「いかがされたのですか? 秋山巡査長」
不思議そうに尋ねる実直な蓮河原の声が聞こえた。秋山はハッとして、バツの悪そうな声で応じる。
「いや、申し訳ない。聞いてはいます」
「ああ……被疑者の監視で疲れているのでしょう。もう少しです救援を待ってください」
気遣いを感じさせる蓮河原の声に、秋山はうまく応じるのに苦戦した。
そうだ、自分と凛子の立場は、あまりに違いすぎる。何だろうか、それがどうしようもなく秋山を困惑させた。
「秋山殿」
凛子が声をかけてきた。
「凛子、さん……」
電話を切った後で、凛子の方を向く。
「電話の相手は……治安警察ですか」
「あ、ああ」
「……この自由も、きっと雨があがって、あいつらが来るまででしょうね」
何も、言えなかった。
凛子はやれやれと言わんばかりにため息をつく。
「ならばせめて、やりたいことをやらなければ」
凛子は物置に向かって歩き出そうとして、足を止めた。
「そうだ、秋山殿。今、手を空いていませんか?」
「え、まあ……何もすることはないな」
雨な上に、首の拘束具もある。秋山の手から凛子が逃げられるわけがなかった。
「では手伝ってくださいませ」
秋山はさも当然のように話す凛子に、少し鼻を鳴らした。
「お前、いい身分だな。治安警察の私を利用しようというのか」
「はいはい、泣きべそ小僧が何をいうんだか」
彼女は思わせぶりな笑みを浮かべる。昨日のことを指しているのだろう。顔がかああと熱くなる。
「はあ! 別にあれは……あれは……」
凛子はけらけらと笑った。
「はいはい、誰にも話しませんよ。あなたのかわいいところは」
「凛子さん!」
秋山は抗議の声を上げる。すると凛子は秋山を覗き込むように見た。それに秋山は心臓が跳ねるようにどきりとした。
「はい、なんです?」
「っ……」
なんだろう、凛子の顔は何度も見合わせているのに。こんなに彼女は魅力的に見えただろうか。美人だと思ってはいたが、特に何も感じていなかったのに。
「……な、なんでもない」
秋山は口を濁した。
凛子は秋山の様子にご満悦といった様子だ。人差し指を自分の顎に当てて、語るように言った。
「ふふ、これからやること。意外とあなたは好きかもしれませんよ」
なにやら意味深なことを言う。
「なんだ、もったいぶたずに言え」
「ダメです。これはいわゆる宝探しですから」
意味がわからない。秋山は首をかしげるしかなかった。
「おいおい……本がこんなにあるのか!」
「ええ、そしてこの本のなかにはへそくりとかメモ書きが何枚も残されてるはずなんです。それを探してください」
秋山が蔵書の山を見て思わず声を上げてしまった時に、凛子はなんともないような声で言った。
「まさかそれが宝か?」
秋山はジト目で凛子を見る。
「ええ、私の宝ですわ。へそくりはもちろんメモ書きも」
「メモ書きも?」
「ええ……ここの本の多くは、もういない人のものなんですよ。だから……その痕跡を辿りたいんです」
凛子は愛おしそうに一冊の本をつかんだ。絵本のようだ、金髪の女の子が描かれている。
「そうか……」
「はい。ああ……なんだか雨がもっと降ってきそうですし。悪い天気が悪化しそうですね……」
「ああ、だけど私は読まないからな。一応私は……」
「分かってますよ秋山殿」
読まないと思いながら本をめくっていく。何冊も何冊もめくっていくうちに、たしかに古いお札が出てきた。そしてメモ書きも。
ーー表現の感触は良し。甘い話である。こんな恋はあるのかしら。
ーー疾るような物語である。考えることの自由をここまで熱く書けるなんて、とても快い。
ーー凛子が楽しそうに聞いていた。主人公のアリサが可愛いそうだ。ちょっとアリサと凛子と似てるわね。
メモ書きの主は本の端に書かれた所有者なのだろう。
小坂部瑠璃子(おさかべるりこ)とは誰なのだろう。おそらく、凛子の関係者だろうが。
ただ瑠璃子の本に混じって、兄の本が出てきた。
むくりと心の中にあった疑問が起き上がる。どうして兄の本がここにあるのだ。
それに彼女の出す料理はとても兄が作ってくれたものと味がそっくりだ。
その答えを求めようと、秋山は手を止める。
それから、目を細めてメモ書きを見る凛子に声をかけた。
「お前はいったい何者なんだ……」
「何者って、私は私でしょうに」
「そうだが、私は凛子さんがわからない」
「……どんなところですか?」
「どんなとこと言うと……」
秋山はどう問えば正確なんだろうかと迷いつつ、口を開けた。
「凛子さんの料理から、兄の味つけがする……兄の蔵書がある……でも十四年前兄に、凛子さんのような人の姿はなかったと思う……」
「……そうね、直接的な関係では無いわ」
「直接的では無い?」
「私の姉、小坂部瑠璃子と付き合っていたのよ、あなたのお兄さんの、秋山陽一郎は」
「……え、兄に恋人が?」
「やっぱり話してなかったのね。そうね、姉はあの頃から反逆者だった。家族が辺境の戦争に参加させられて、それに異議を申立てる詩を書いたから……」
「あれか夜羽(よはね)の国との辺境防衛戦……確か暁善から逃亡した知識層が反乱軍として攻め入った」
「ええ、暁善が辛勝し、どちらも多大な被害が出た。私達の父もそこで……。姉は、絶望に打ちひしがれてね。そんな時、助けてくれたのがあなたのお兄さん。二人は恋人となり……姉は得意な料理を陽一郎さんに教えて、私も姉に習っていたから味がそっくりなの」
「……そう、なのか……」
「正直名前を聞いて驚いたわ。顔立ちも似ていて、空似なのかと思っていたけど、名前を聞いて確信した。あの人の、陽一郎さんの弟さんじゃないかって。名前は聞いていたからね」
秋山は胸のうちがぐるぐると渦巻くような気持ちだった。兄のやっていたことが、時を超えて、反逆者でもある凛子の口から聞くことになろうとは想定してなかったのだ。兄の愛した人の家族。彼女はどんな思いで兄を見たのだろうか。
「兄はどんな人だった?」
凛子は即答した。
「優しくて、あったかい人だった」
秋山は小さく笑った。
「ああ、知っている」
兄はどんなところでも兄だった。
凛子と本をめくる時間が過ぎる
時折を会話をしていく、その一つ一つの言葉が心に柔らかく沈んでいく。
何でこんなに心が熱くて、でも嫌じゃない気持ちで包まれているのだろう。
どうして、この人は反逆者なのに……いや、違う、ただの人間だ……この人のあり方が罪だとしても
凛子さん自身の存在は、何も悪くない……。
空が唸るような音を鳴らした。ハッと顔をあげると、ごろごろと雷が降りそうな音がしている。
「雷……?」
そう呟いた瞬間、空を切り裂くような雷が落ちた。
まだ日が落ちる時刻ではないのに、外は夜のように暗い。
「きゃぁあっ」
凛子は本を放り出して、頭を抱えている。
「どうしたっ」
「雷……雷が……!」
思わず肩を掴むと以前のように震えている。
「大丈夫だ、この家に落ちることはないだろう」
「そうだけど……そうだけど!」
「大丈夫だよ……大丈夫だって」
どうしてその言葉が出たのか、後になってもわからない。
「私がそばにいるから」
怯えきった凛子が秋山を見た。
「ほんとうに……?」
秋山は静かに頷いた。
「ありがとっ……」
また雷が鳴り響いた。
「きゃぁああ」
凛子は慌てふためき、秋山にすがりつく。その凛子の確かな感触を感じた時、秋山は自覚してしまった。
凛子を守りたいと心の底から願う自分の姿に。この人のそばにいたいと思う自分に。
ーー凛子に恋をしている自分に。
そんな……秋山は呆然とした。
そんな、嘘だろ……と。
心が崩れ落ちそうなくらいの蜜の感情に、苦い蔓が巻きつくような……息が浅くなるほどに重いモノ。秋山は声を失った。
最初のコメントを投稿しよう!