それは儚く消えゆくモノ

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それは儚く消えゆくモノ

 この世には侵してはいけないことがあると思っていた。 けして暁善の国では大統領に逆らってはいけないし、治安警察は絶対の正義だから立ち向かってはいけないし、敵と恋に落ちていいのは、禁忌の物語だけだ。  それなのに、自分は……自分は今、どんな感情を抱えている?  派手な水音が響く。しとしとと昨日よりも弱くなる雨の中で その音はひどく乱暴に聞こえた。秋山は水の張った桶で顔を洗っていた、冷たい水が頬を叩く。  真夜中、とっくに凛子は寝ているだろう。秋山は濡れた顔を拭き取らず、ため息をついた。顔から滑り落ちた水滴が、桶に残った水に落ち、高い音がした。  手ぬぐいで水気を拭い取る。顔はスッキリしたが、心はまったくの曇天にもほどがある。眠気もやってこない。どうしてわざわざ眠気を殺すような真似をしているのか。合理性がないにもほどがある……しかし、それをせざる得なかったのだ。  この心の不安や動揺を、自分でどうにか制御させるためには……今の秋山では顔を洗うことしか思いつかなかったのだ。  恋をするなんて思っていなかったのだ。確かに自分の側にいる人なんてろくにいなかったのは事実だったが、それでもいつか、平穏な恋をすると思った。だけど現実は、そんな秋山の心境を知らないと言わんばかりの運命を持ってきた。  凛子という存在を。どうして彼女だったんだ。彼女が普通の、どこにでもいる人であれば、こんなことで悩まなかったのに。どうしてなのだ。だけど、凛子が逮捕されて、秋山と雨の山中に閉じ込められなければ、恋に落ちなかった。神が居るのならば、自分たちは舞台の上に招かれたようだ。偶然からはじまった、運命のような、恋に。秋山は自分を呪いたくなった。治安警察でなければこんなことにならなかったのにと思ってしまって、自分に対して衝撃を受けたのだ。何を言っているのだ、治安警察はこれまでの秋山の人生そのものだった。それが数日で覆ろうとなんてあってはいけない。あってはいけないのだ!  だけど凛子の顔が自分の脳から剥がれない。彼女の笑みが自分のプライドをどろどろと溶かしていく。どうしたらいいのだ。この胸が潰されそうな、痛みは……。秋山は荒く、息をついた。そして気がつく。雨の勢いは弱まり雨の終わりが近づいていることを。秋山はどうしていいか分からずぎゅっと目を瞑るしかなかった。こうなることが、もし必然だとしたら、神はどれだけ残酷なのだろうか。 「俺は、一体っ……」  秋山は、かすれた声で呻いた。その声は夜の闇に、静かに沈んだ。  女は布団からゆっくりと起き上がった。 誰かの悲痛な、棘が刺さって上手く声が出せないような声が聞こえた気がした。  これはいったい、何の声だったのだろう。覚醒しきれないぼんやりとした頭で考える。ああ、そういえばと女は立ち上がる。寝間着代わりの浴衣の乱れを直しながらと棚を見る。そこには薄い紙で包んだ、たくさんの原稿が置かれていた。本になることになれなかった、自分の書いたモノだ。  このままだと、治安警察に没収されて、禁書庫に仕舞われたり、燃やされたりしてしまうだろう。せめて一冊だけでも残せないものか……時代のせいで儚く消えゆくモノだとしても、これは凛子の生きた証しなのだ。 「……収監されたら、もう二度と筆は……」  ぞくりとした。覚悟は決めていたつもりだった。今だって決めている。けれども、もう今以上に、考え、自由に表現することが出来なかったら……自分は自分でいられるのだろうか。この国は、右にならえば右で、左を向くことの自由はないのだから。 「ああ……」  酒が飲みたくなった。締め切った部屋を抜けて、縁側で雨の音を聞いて。黄色の明かりを側において、原稿を読み返そうか。今日は何だか、恋を読みたい。
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