雨が降る山の中、女と二人

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雨が降る山の中、女と二人

 どしゃぶりの雨が、平屋の外でごうごうと降っていた。雨はたった一時間前から降り出していたが、その雨量は尋常ではない。平屋の前にある川は大きく氾濫し、家屋と山道をつないでいた橋を、引きちぎるように流してしまったのだ。この事態、全く想定していたものではない。現状の報告をしようと思ったが、黒電話の奥から聞こえる音はツーツーという電子音だけだった。どうにかして相手に連絡を取りたいのに何とも言えない状況、それを秋山慎次郎は耐えなければいけなかった。 「まったく、運が悪いと笑えないレベルだ」  独り言を思わずこぼしてしまった慎次郎の脇には手を縛された女がいた。 この女は暁善(ぎょうぜん)の国では反逆者の作家であった。今日は地元警察から引き渡されたこの女を、秋山が所属している治安警察が都へと連行する日だった。その先行の役目を慎次郎は担っていたのだ。  ところがこの事態である。十年、秋山は治安警察として暁善のあちらこちらに出向していたが、大雨で動けなくなるのは初めてだった。  女は顔をあげる。長い髪の毛はまとめていたが、ほつれてたれた前髪の隙間から、黒い眼で降りしきる雨を見た、ぽとりと、言葉を落とす。 「龍が泣いているのね……」  豪雨のことを暁善では龍の涙と呼ぶことがある。特に老人や言葉にくわしいものが使うという。こんな言葉をさらりと使うとは……秋山はいらいらする思いだった。女は作家だった、旧世代の作家だった。新世代の作家は国に作家として登録し、検閲に合格できる作品だけ書ける人間のことだけを指す。しかし旧世代の作家は、あろうことか国を治める大統領の施策に反対し、結果焚書された作家のことを指していた。女は五年も治安警察から逃げていたのである。 「うるさい、余計な言葉を吐くな……その首の装置を動かすぞ」  別にたいしたことのない戯れ言だった。秋山の神経をいらだたせたのは、簡単なことで、この女が作家であるということを感じたからに過ぎなかった。  秋山は作家が嫌いなのである。  どれくらい嫌いかというと、反逆者として扱われる作家の作品の内容を、治安警察は把握していないといけないのだが、本が収納されている資料庫に秋山は一度として行ったことがないくらいだ。  女は呆れたように頭を横にふる。 「治安警察の人は言葉に興味はないのかしら」  女は首につけたられた首輪から電流を流されることに恐れはないようだった。さぁやってみろと言わんばかりの意思すら感じ取れる。そうなってしまうと秋山は逆にやる気が失せた。  まぁ、どうせ自分が暴力行為をしなくても、反逆者が収監させられれば、地獄を見るのは明らかだったのだ。自分の手を下す必要もないのだ。  雨は降り続けている。秋山は受話器を取り、ぐりぐりと指を回すように動かして電話をかけた。これからどうすればいいのか、せめてその指示を聞かなければいけない。たまたま一人で監視の時にこんな事態になってしまったのだ、次からは一人で監視はないようにとも進言すべきだと思った。うまくいってくれと思っていると、耳にプルルルルという音が聞こえた。やった、と思った。治安警察の部隊に電話がつながったのだ。やがてガチャリと音がして、男の声が聞こえた。 「こちら登録番号、9716392 華山区治安部隊所属、蓮河原健作巡査長です、用件はなんでしょうか」 「こちら登録番号、172839 中央区治安部隊所属秋山慎次郎巡査長です、本日被疑者を華山区警察より引き渡しされ、連行予定でしたが……雨の状況がひどく動くことができません。救援を要請します」 「ああ、あの件ですね。秋山巡査長……うちの部隊も連行に同行するはずですよね。どうなっているのか確認します」  蓮河原は受話器を一旦置いたようだ。保留音が聞こえる、すぐに通信で同行するはずだった部隊に連絡しているのだろう。電話の置かれた台を、とんとんと指で叩く。もともと被疑者の女が使用していたものを、臨時の連絡用に改造したらしい。 わざわざそんなことをする必要もないと思ったが、こんな豪雨で橋が流されることになってみると、僥倖としか言えなかった。やがて金管楽器で奏でられる国歌の保留音が終わった。 「秋山巡査長、おまたせしました。現在状況なんですが、かなりまずいことになっています」 「どういうことですか」 「はい、部隊は秋山巡査長と合流すべく出発していたのですが、豪雨で山道で土砂崩れが起きていまして、雨で地盤がゆるんでいることもあり、二次被害をさけるために退避しています」 「それでは、私たちのもとに近づくこともできないのですか?」 「そういうことになります。……そちらがわの状況は雨がひどいだけでしょうか」 「いえ……それだけではありません。この場所は山の切り立った場所にあり、山道まで行くのに橋を渡る必要があります。しかし川が増水して、橋を流してしまいました」 「そうですか……被疑者は逃げられないでしょうからともかくとして、秋山巡査長の早期の救助が必要になりますね」 「はい……よろしくお願いしたいです」 「幸い、なんとか通信はとれています。待機をしてください、そこで救援を待ってください。また、ご連絡します」 「わかりました……」  自分は声だけでもうまくやれただろうか。まさか、こんな状況に陥るとは思わなかった。 被疑者の女と二人きりで……秋山は待機し続けなければいけない。 雨は秋山の心を乱すようにざぁざぁと降り続いている。  秋山は女の元へと向かう。こうなってしまった以上自分はこの場所で待機し続けなければいけないだろう。 そうなると、女の手錠を外す必要があった。さすがに拘束しっぱなしでは女は何もできないし、万が一鬱血して死亡させたりしたら目も当てられなかった。  だが淡々と女の手錠を外すのもなかなか癪だった。美人であるが気の強そうな顔立ちで、蛇がカエルをにらむような睨みをきかせるのだ。何かで怒っているというより、秋山のことを歯牙にもかけてないという感じだ。だから秋山は鍵を持ったまま、座り込んでいる女を立ったまま見ていた。この女に何か言ってやろうと思ったが、何を言っても罵倒で返してきそうである。なんとか一言で黙らせられないかと思ったら、じっと自分を見つめてくる秋山の視線に耐えかねたのだろう女は言った。 「何……何か用なの?」  ここで無言で通しても逆にかっこつかないだろう。秋山は出来るだけ無感情で、ぼそぼそと枯木の肌のようにかさついた声をだした。 「捕縛を解く。感謝しろ」  女はさすがに秋山の言葉に目を丸くした。若干意味がわからないというような顔をしている。その気持ちは秋山も同じだ。こんな豪雨でのトラブルがなければ、こんなことはなかっただろう。ありえないことなのだ。 思わずこの状況のやっかいさを感じ、秋山は顔をしかめた。眉間に深いシワが刻まれる。だが一瞬のことだ、すぐに鉄面皮になる。しかし目ざとい反逆者はその瞬間を逃さなかった。 「よっぽど、嫌なのね……でもどうして捕縛を解いたの……ああ、分かったわ」  女は急に表情を崩した。意地悪な笑みをうかべる。まるでネズミが人間のミスを嗤っているような印象を受ける。美人であるから様になっているが、下品な笑みだ。女は言った。 「このひどい雨……もしかして、私もあなたも、山道へ出られなくなったのかしら」  女にとってこの状況はたいしたことはないらしい。それが無遠慮に腹の底を撫でられたように腹立たしい。秋山は自分の腕を組んだ。 「だからなんだ、どうせ数日のことだろう。それまで私に協力してもらうぞ、女」 「あなた、人の扱いについて親御さんに習わなかったのかしら」 「なんだと、犯罪者が説教を垂れるつもりか」 「あー、ほんと、モテなさそうな発言ばかりして、残念ね、顔はいいのに」 「何……!」  思わず前のめりになって女に迫る秋山に、女は射抜くような視線とともに、強く指差した。 「私は小坂部凛子(おさかべりんこ)、せめて何かを人を頼むなら、名前で呼びなさい。私は、ものじゃないのよ」 「なっ……何を」 「そのかわり私もあなたの名前を呼びましょう。なんて、名前なのよ」 「……」  素直に答えたら負けな気がした。しかし女に優位を持たれ続けても困る。装置を使って首から電流を流せば、少しは痛めつけられそうだが、こいつはそれで傷つくように見えなかった。魂が馬鹿みたいに固そうなのだ。つまりこいつは痛めつけてもどうにもならない。秋山は胸をはって、女に負けないように言った。 「秋山慎次郎巡査長だ、だが教えたとして勘違いするなよ、私は便宜上……」 「あなた、そんな名前なの」  秋山は女を見て少し目を見張った。女がぽかんとこちらを見ているのだ。 なんだろうかと秋山は頭が痛くなった。秋山の名前に何かがあるのだろうか。 しかしそんなことはどうでもいい、これから先のことを思うと気が湿った綿のように重くなった。
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