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鯨狩り
鯨の美しいハーモニーが、ナナソルの耳朶に轟く。遠い昔に死んだ母親鯨の子守歌を思い出しながら、ナナソルはそっと眼を開けていた。
綺羅星を乗せた如く多彩な光彩を放つ銀の髪を翻して、彼は起き上がる。
ナナソルの銀の眼に映るのは、天の川と空を飛ぶ鯨の陰影だ。
強大な鯨の上にこの世界はあり、空に浮かぶ鯨たちが人々の魂をこの世界へと誘う。この世界に伝わる神話は、ナナソルの出自とも関係する。
彼は空に浮かぶ鯨に育てられ、鯨狩りの奴隷たちによってその身を保護された過去を持つのだ。空に浮かぶ鯨は、この世界に住む人々の貴重な資源であると同時に、天から降ってきた先祖たちの魂でもある。
鯨を狩ることは即ち重罪とされ、それはもっぱら穢れている奴隷たちの仕事とされていた。だが、神たる鯨を狩る彼らは穢れていると同時に、神聖な対象ともなっている。
それゆえに、鯨狩りの物の多くは美しい見た目をした、特殊な出自の青年たちであった。ナナソルもその例に漏れず、鯨に育てられた聖なる御子として鯨狩りの奴隷の身分に落とされたのだ。
鯨たちのハーモニーに合わせ、ナナソルは声を震わせて歌う。いまだ声変りを知らぬその響きは艶やかな乙女のそれにも似て、聴く人を酔わせる。
雌の鯨がはっする求愛の歌だ。その歌をナナソルは雄の鯨めがけて送っている。するとどうだろう。十字の銀河を背に夜闇を飛んでいた鯨の陰影が一つ、こちらへとやってくるではないか。
しめたと、ナナソルは笑うい、すまないと心の中で謝る。鯨を狩らなければこの国の者は生きられない。鯨の肉こそが、人々の魂をこの地に繋ぎとめる糧なのだ。
接近してくるのは、ナナソルの五倍はあろうかという雄の若い鮫だった。それでも鯨の中では小さな方だ。年老いた鯨は狩りの得意なナナソルですら捉えることが難しい。
彼らの体の大きさときたら、鯨の集うこの樹海よりもさらに巨大なものだからだ。鯨狩りの本心としては、鯨狩りの年長者たちがやる年の鯨狩りには立ち会ってみたいものだが、あいにくとそれ専用の捕獲戦にナナソルは乗せてもらったことがない。
背にある鯨の牙で作られた銛で鯨を狩ることができる。これが、一人前の鯨捕りと認められた証だ。そして今日、ナナソルはその一人前になる狩りを始めようとしている。
背にある銛をそっと筋張った手でなで、ナナソルは地面を蹴った。
高く跳躍し、彼は鹿のごとくしなやかる足で樹の幹を蹴り上げる。上方へと向かう体を捻らせ、ナナソルは両の手で木の枝をつかんでみせた。勢いをつけて、上方の樹の幹へと体を跳ばす。
その樹の幹を駆け上がり、ナナソルは空へと跳んだ。
暗い森が眼下に広がり、上空には白い鯨の腹が見える。ところどころ苔むしたその腹を仰ぎながら、おちゆくナナソルは背中の銛を鯨に向けて放っていた。
ナナソルの細い腕から発せられたそれは、美しい弧を描いて鯨の腹に吸い込まれていく。鈍い音が次の瞬間響いた。空に浮かぶ鯨が、悲壮な声をあげながら樹海へと落ちていく。ナナソルは手近な樹冠へと着地し、そこから地面へと降り立っていった。
木々の千切れる音とともに、鯨は森中に倒れている。ナナソルは綺羅星に黒く照らされる鯨のもとへと駆け寄っていた。
銀色の鯨の眼がひっきりなしに動いては、涙を流して上空に浮かぶ仲間の陰影を捉えていた。鋭い歯の並ぶ口からは、鯨の悲鳴が響いてくる。
銛の突き刺さった腹部からは、水銀色をした血が絶えず溢れ出ていた。そっと片手をたて、眼を瞑るナナソルは鯨の冥福を祈る。眼を開けた彼は、腹部に突き立てられた銛を両手で引き抜いていた。肉の裂かれる音が耳朶に響いて、ナナソルは顔を顰める。
鯨が叫ぶ。その叫びはナナソルの鼓膜を震わせ、そっと彼の美しい銀の眼に涙が走る。
ナナソルは血に濡れた鯨に腹に体を押しつけ、鯨を抱きしめていた。
大きな鯨の鼓動が、だんだんと小さくなっていき、冷たい体はさらに冷たさを増していく。鯨の死が近い。自分たちの糧となるために、鯨が死ぬ。
その事実にナナソルは、熱い涙を流していた。
「その鯨、もう生きてはいないのね……」
美しい鈴の音のような声がする。そっとナナソルが後方へと顔を向けると、悲しげに伏せられた銀の眼と眼があった。美しい銀糸の髪を風にゆらす彼女は、そっとナナソルのもとへと歩み寄る。
「姫様……」
リリン姫だ。鯨狩りの頂点にして、この国を司る王の娘。その尊いお方が、自分の前の前にいる。そっとナナソルは片膝をつき、リリン姫に頭をさげていた。
リリン姫はそっと頭をふって、ナナソルに立ちあがるよう促す。ナナソルが立ちあがると、彼女は微笑み、そっと鯨の前に膝を折っていた。
両指を組み、彼女は鯨の冥福を祈るために眼を瞑る。朝の森を垂らす陽光が、そんなリリン姫を優しく照らし出した。彼女の銀糸の髪が、朝露のごとく煌めく。
リリン姫の美しい祈りの姿に、ただナナソルは見惚れていた。神々しい絵画の一枚ともいえるその姿は、まさしく一国の姫として相応しい。
そんな彼女が眼を見開く。
「鯨が来る……」
そう言って、彼女は空を仰いだ。ナナソルも彼女に倣い、空を見あげる。ナナソルの視界いっぱいに、その黄金の鯨の姿は映りこむ。
鯨の王と呼ばれる黄金の鯨。その鯨が昇り始めた朝陽に照らされながら、東を目指して飛んでいくではないか。
「今朝、お父様が身罷ったわ……」
静かにリリン姫が口を開く。そっと彼女は顔をナナソルに向け、言葉を紡いだ。
「黄金の鯨は人の命を天の国へと乗せていく。お父様は、神々のいらっしゃる天の庭へと連れていかれるの……」
静かに微笑みながら、彼女はナナソルに父王の死を告げていた。この国の王バッソスは、ナナソルにとって父とも呼べる人だった。鯨の言葉しか分からない自分に、人の言葉を教えてくれた人だった。
そっとナナソルはそんな王を思いながら眼を瞑る。
「鯨のためには泣いてくれるのに、お父様のためには泣いてくれないのね」
姫の突き放すような言葉が、胸に突き刺さる。彼女が自嘲を浮かべているのが、気配でわかった。
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