1、一目惚れ

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1、一目惚れ

 冷房のきいた室内は、暑い夏には快適な場所だ。  縦長に少し広い部屋の壁に沿って作られた、ガラスのショーケースは、さらに温度管理して徹底されている。  そこには色とりどりの切り花が並んだ。  何種類もの花が置いてあったが、実際どれ程の揃えがあるのか、数えたことはない。  母親の言いつけで店番を頼まれたのは、一時間前。  駅前のアーケードに軒を連ねる店の一件。母親の職場である生花店“城花屋(しろはなや)”は俺の家でもある。  一階が店舗、二階に住居といったシンプルな造りの建物だ。  そんな簡単な造りだから、俺が家にいればすぐに母親の都合で呼び出される。学校から帰宅して、一息つこうと思った今のように。  隙間なくアーケード内に立ち並ぶ、昔ながらの商店街は、地域の生活の場でもあった。  城花屋の左隣は八十を過ぎた爺さんの営む判子屋で、右隣は老舗の喫茶店。お向かいは同級生の家で、富士屋というパン屋だった。  いつも判子屋の爺さんは店を開けたまま、喫茶店で話をしている。店の常連はたいていコーヒーを飲んだあと、富士屋のパンを買って帰る。  そういった決まりごとのような毎日が、日々繰り返される街だった。  残暑が残るこの季節、外はアーケードのおかげで強烈な日差しは避けることができる。  けれどそれだけでは、熱された空気から逃れることは難しい。  母親の言いつけで店番をするのは億劫ではあったが、冷房が絶えずきいた店内に居座れるのは、それほど悪くないことだった。  最寄り駅から二駅の場所にある大学に通い、先週から始まった後期の授業は、週の半分も一限目から授業があった。  四限目を終えて、暑さから逃れるために寄り道せず帰ってきたのは、幸か不幸か。  裏口から気配を消して、二階の自室へ向かったにも関わらず、母は階段下から俺を呼んで近所のスーパーへ出掛けた。  平日の夕刻に近い時間、そこまで客は多くない。子供の頃から仕込まれた接客も慣れたものだ。  今も小綺麗にした若い女や、年配の子連れが、数種類の花を買っていった。  変わったことと言えば、花屋には珍しい男の客が一人来たくらいだ。  濃紺のスーツをきて、暑くないのかと訝しく思ったが、買っていった花を見て心の中で笑った。  一輪の薔薇を透明なフィルムで包み、花と同じ赤いリボンで飾り付けた物だ。  あんなもの、恋人にでも贈るのだろう。  今時そんなキザな男もいるのかと、むしろ感心した。  何人か客の相手をして、結構な時間が過ぎた。  スーパーへ出掛けると言って出ていった母親は、いまだに帰ってこない。  同じアーケード内にあるスーパーだと勝手に勘違いしていただけで、まさか一つ先の駅まで行ったということでもあるまい。  おおよそ近所の友達と、立ち話が盛り上がっているに違いない。  女の長話はいつどこでも場所を選ばないのだ。  レジ横のカウンターに肘をついて、道行く人を意味もなく眺める。向かえの富士屋の入り口から、真っ直ぐこちらに向かってくる男がいた。  そいつに片手をあげて、かるく挨拶じみた仕草をして見せる。  そうすると同じように相手も片手をあげて、店の中へ入ってきた。 「真兎(まなと)、暇か?」 「見てわかんね?店番中」  物心ついたときから一緒に過ごしてきた、いわば幼馴染みの永井遊太(ながいゆうた)は、富士屋の一人息子だ。  小さい頃からクラスが同じで、今や大学まで一緒に通っている。  家が目の前というのも理由に、暇さえあればお互いが往き来していた。  今も特別何か用事があって来たわけではないだろう。  片手に富士屋と印字された袋を俺に手渡して、自分だけ中身のパンを食べ始めた。 「でもおばさん外にいるけど?」 「は、まじで?」 「まじまじ」  遊太は笑いながらパンを頬張って、外を指差している。 「少しって言ったのは誰だよ」  俺は文句をいいながら店の入り口を出て、道の左右を確認した。  喫茶店側へ目線を延ばしてすぐだった。探すことも必要ない。遊太の言うとおり、母親がすぐ目の前で立ち話をしているではないか。  店の中からはショーケースの一部と重なって、うまい具合に見えなくなっている場所だ。  どれくらい話していたのか検討もつかないが、俺の店番中ほとんどをここで過ごしていたに違いなかった。 「母さん、いつまで俺にやらせんの」  入り口から顔を出して、盛り上がる母親に声をかける。 「あら、今いくわよ」  俺は返事を聞いて、会釈をする。それはもちろん、母親と一緒になって話をしていたメンバーにだ。 「おばさん戻るって?」  遊太は先ほどのパンをもう食べきって、親指をぺろりと舐める。 「ああ、いま来るよ」  俺は貰った袋から同じ菓子パンを取り出して一口食べた。  それをなんの許可もなく、遊太は横からかぶりついてくる。 「ごめんごめん、話が盛り上がっちゃって。あら遊太くん来てたのね」 「こんにちはー」 「バイト代もらうからね」  悪いなんて思ってもいない母親は、スーパーから買ってきた物を片付けるために二階へ上がっていく。文句を言っても流されて、隣では俺が手に持つパンを遊太が盗み食いしていた。 「今から由里子(ゆりこ)のとこ行くんだけど、真兎も行くだろ?」 「行ってもいいけど、何かあるのか?」  遊太は詫びれる事もなく、また一口かじりつく。  真ん中に具のあるパンの残りはほんの少しで、俺はそれを一気に口に放り込んだ。 「なんか髪切ってくれるらしいよ」 「大丈夫なのか?」  少し怪訝そうに言って親指を舐める。隣の遊太が外の方に目をやって、何かに手を振った。  つられて目線をあげると同時に、店の入り口が開いてぬるい風が入り込んでくる。 「早く来てよ、準備してまってるんだからさ」  見慣れた顔に、俺はまた手をあげて挨拶をする。同じように相手も手をあげて返した。 「由里子来たんだ。今行くところ」 「来たんだ、じゃないでしょ。遅いから様子を見にきたの」  明るく染めた髪は緩くパーマをかけて、露出の少ない服装が男性陣から不人気の由里子は、商店街にある美容室の娘だ。  年は二つ上だったが、家が近所というだけで一緒に学校へ通っていた。簡単に言えば由里子も幼馴染みの部類だろう。 「だって真兎が店番してたからさ。てか見てよ、このぼさぼさ」 「悪い、母さん帰ってきたから今いくよ、ってやめろ」  遊太は俺の頭を両手で犬のように撫でる。そのせいで前髪は瞼にかかり、涼しい店内でも暑く感じた。 「あらー由里子ちゃんも、久しぶりねぇ」 「こんにちは、今から真兎かりますね」  荷物を置いてきた母親が、いつもの黒いエプロン姿で二階から下りてきた。 「切るって、俺の髪?」 「今日は二人とも切ってあげる」 「え、まじで?ラッキー」  隣で喜ぶ遊太をよそに、俺は少しばかり心配でためらった。 「由里子ちゃんが切ってくれるの?いいじゃない。真兎、その頭なんとかしなさい、みっともないわよ」  俺の心配なんて気にもしない母親は、勝手に幼馴染みへカットスタイルを頼み始めた。  正直毎日暑い今、無造作に伸びて耳にかかる長さの髪は、鬱陶しく思ってはいた。  けれどまだアシスタントであるはずの由里子に、俺の望む髪型へ仕上げる腕があるのか疑わしい。 「大丈夫なのか?まだ見習いだろ」 「最近ようやく切らせてもらえるようになったの。カットモデル探してたんだよね」 「練習だいってことか」 「最後に店長が整えるから安心して」  店長というのは由里子の五つ上の兄だ。この商店街では珍しいおしゃれな美容室のスタイリストとして、結構人気があると遊太から聞いたことがある。  昔からお世話になっている店ではあるが、俺の担当はいつもの違う女性スタイリストだった。 「いいじゃないの、行ってきなさい。由里子ちゃんお願いね」 「まかせてください」 「おれどんな髪型にしてもらおうかな」  仲のいい幼馴染み二人は、意気揚々と美容室へ向かう。  さっきまで無理やり店番をさせていた母親は、今度は無理やり俺を外へと追いやった。
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