2、香りと薔薇

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2、香りと薔薇

 少しの間外へ出ただけだというのに、額には汗がにじんだ。  アーケード内の商店街にある唯一の美容室、“サフラン”は営業中にも構わず、俺は幼馴染みの遊太と由里子に連れ込まれる。  店のショーウィンドウに記されたサフランという名前を見て、アヤメ科の紫色をした花を思い浮かべた。  特別花が好きだからというわけではない。  物心ついたころから、母親には花の種類だけではなく、花言葉や誕生花といった花にまつわる話を嫌になるほど聞かされた。  そのせいで今ではもう、目につく花の名前は、脳内で勝手にその花を咲かせるのだ。 「きたのか。悪いな、由里子のモデルに付き合わせて」 「どうも、大丈夫ですよ(みなと)さん。無料なんで文句言いません」  店に入るとアロマに似た香りがふんわりと漂い、薬剤の匂いが微かに混ざってまとわりついた。 「お前はいい性格してるよな。真兎もきたか、お前はすごいぼさぼさだな」  遊太には呆れ顔でそう言って、残念そうに俺の頭を見る湊さんは由里子の兄だ。アッシュブラウンの髪をスタイリング剤でまとめて、大人の色気を醸し出している。  接客中なのか、若い女性客のヘアセットをしていて、複雑な編み込みが目を引いた。  そんな湊さんが店長であるサフランは、女性客の割合が多いように感じる。  なにせ今でさえ男は由里子に無理矢理つれられた、俺と遊太しかいない。 「やっぱり湊さんも見てわかります?真兎、暑くないの」 「暑いけど、俺もしばらくしたら切ろうと思ってたんだよ」  遊太はまた俺の頭を撫でて、それを湊さんに笑われる。  店内は涼しいはずなのに、接客中の女性客と鏡越しで目が合い、顔が熱くなってまた汗をかいた。 「二人とも、こっちきて」  まだ俺にくっついている遊太を振り払いながら奥へ進む。  明るい店内に等間隔で並ぶ大きな鏡が、急ぎ足で歩く自分を映した。 「今日カラーもするよね、色どうする?」 「まじで、いいの?おれどうしようかな」  はじゃく遊太は色見本のボードを見て、由里子にアドバイスを受けている。  少し整える程度で考えていた俺は、すでにその場に置き去りだ。 「真兎はどうする?でもあんたは黒が一番似合うのよね」  雑誌の男性モデルと照らし合わせながら、交互に目線を向けられる。よく見てみれば黒髪の男ばかりが目について、由里子の好みに染めかねられない気がした。 「俺はこのままでいいよ」 「もったいない、おれ真兎の金髪みてたい」 「そんなの無理」  正直こんな狭い街で、目立つようなものはごめんだった。どこに行っても知り合いばかりなのに、そんなところで目につく行為は避けたい事この上ない。 「とりあえずシャンプーして、遊太のカラーしてる間に、真兎切っちゃうわ」  開いていた雑誌を棚に片付けて、由里子の後についてシャンプー台へと移動する。  使われたシャンプーからはローズ系の香りを強く感じて、店で薔薇を一輪だけ買っていったキザな男性客をふと思い出した。  髪を切っている最中も、隣からは遊太が話しかけるし、後ろでは由里子が一緒になって参加した。  そうして話していると、自分の髪型がどうなっているかなんて忘れてしまって、いつの間にか仕上げたと言って前髪をカットされる。  カラーは由里子の好みに合わせて、かろうじて回避することができた。  鏡に写る自分を見て、案外普通の髪型にほっとする。  確認のために湊さんが後ろに立って、由里子に説明しながら切り始めた。 「後ろの方がまだ少し長いな。それに真兎は顔がいいから、あんまり甘めにすると可愛くなりすぎる」 「それ、ほめてます?」 「ああ、もちろん。真兎の顔は好みだね」 「おれも好きー」  そんなことを言われて喜ぶのは女だけだと、ふざける二人に文句を言うが、それさえからかわれた。  改めて好きでもない顔が写る鏡を見て、中の人物と目を合わせる。 「まぁでも、真兎は可愛いっていうより、綺麗が近いからな。長めよりは短い方が似合うと思うよ」 「あ、それわかるかも。真兎って首細いし奥二重だし、いわゆる塩顔男子?」 「褒め言葉として受け取っておくよ」  整える程度で終わる予定が、湊さんは由里子に説明していきながら、どんどんと切り進めていった。  昔から自分の細い体つきが嫌いで、女寄りの薄い顔も好きではない。  花屋の息子なんかをしていると、ひ弱なイメージがついて、花好きとだと勝手に勘違いされる。  父親がいない俺の家は、母親に苦労させまいと手伝いは率先してやる方だったが、それがかえって花好きとして印象付けてしまった。  男親にいいイメージのない俺は、理想の男性像として、力強い男らしさを求めた。  嫌でも可憐な印象を与える花屋の息子を、少しでも取り払おうと、毎日の体作りは欠かさない。  だがそんな苦労も虚しく、俺の体は理想の形にはまだ程遠かった。  涼しくなった首裏を何度も撫でて、セットまでしてくれた髪型を何度も確認した。 「じゃーん、どう?」  暇潰しに用意してくれた雑誌を読んでいると、隣で盛り上がる三人から一斉に声がかかる。 「へぇ、いいんじゃない。似合ってるよ」  俺と同じようにセットまでして、その場に立ち上がった遊太が顔を近づけてきた。 「おれもそう思う。モテ期きたかも」  もとが少し茶色の髪は、ホワイトベージュに染められて、一気に印章が変わった。マッシュベースの長めの髪が左右に分けられて、外国人風の雰囲気が強い。  もともと女子から人気のある遊太なのだから、これでさらに株が上がるのは確かだろう。 「湊さん、ありがとうございました」 「ちょっと、やったの私なんだけど!」 「そうだった、由里子もありがとう」  最初こそ不安ではあったが、無理矢理つれてこられたわりには、良くしてもらったとも思う。  コンプレックスは消えないが、残暑の残る毎日を、明日から少しでも快適に過ごせるようになったのはありがたかった。
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