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灰と散歩
むしゃくしゃした時は、兄のタバコを一本だけ盗った。
ふだんタバコなんて吸ってないし、金の無駄だと思ってる。だから兄のを拝借するわけで。
まずは箱に残っているタバコの本数を確認する。
さすがに最後の一本を盗ったらバレる。
幸い今日は買ったばかりらしく、11本も残されていた。
2本くらいくすねても気づかれはしないだろう。今日は珍しく本数が残っていたため盗ってしまおうかと考えたが、一本だけと決めていたのでやめた。
箱を綺麗に戻し、どこかのビジホかラブホのライターも拝借し、外に出た。
万が一にも、バレたらめんどうなので、タバコを吸う時は決まって夜中に散歩をしながらふかす。
こんな行儀の悪さも、夜の帳が隠してくれた。
岐阜の片田舎の夏の夜は涼しく、水を張ったばかりの田園に月が写され、水面だけが月色に輝いていた。
俺の歩きタバコは、月にはバレなかったようだ。
水を張った田やそれに写る月、植えたばかりの稲の組み合わせは、俺とは不釣り合いなほど清く美しかった。
(魯迅の故郷みたいだな……)
と、ロクに魯迅も知らないくせに思った。故郷という言葉のイメージがそう思わせていたのかも知れない。
タバコの火が、目の前にぽぅと浮かび上がる。
遠くから見たら、蛍のように見えているかも知れない。
いや、不気味な鬼火の方が似合っているだろう。
こんな夜更けには蛍も起きてこない。
左手に挟んだタバコの灰が落ちる。
灰とともに何か落ちればいい、そう思ったが意外にも落としていいものなんて持ってなかった。
タバコ一本分の散歩は、近くの神社の前で終わった。
杉の木が立ち並び、凛と背伸びする姿は、昼間よりも神様の存在を感じさせた。
本当にここに住んでいるかもれないな。ちょっとだけ、頭を下げておいた。
全ての灰が落ちきり、フィルターのみになったタバコを手のひらで遊びながら、短い帰路につく。
灰が落ち切った、なんとも言えない清々しさを感じた。
この為に俺は歩いたのだ。
そうだ、帰りは一切上を見ないで歩こう。煌々と輝く月も、負けじと頑張る星も、気楽に流れる雲も、全部無視してやろう。
上を向かなかったら、俺の勝ちってことで。
タバコの灰の分、行きよりも軽くなった体で、少し背伸びをして歩いた。
戦いは俺の完全勝利だった。
庭に設置された小さな灰皿に、右手で遊んでいたタバコを入れる。
まだ家も眠ったように静かだ。
ゆっくりと玄関を開けると、外に出たい飼い猫の必死の抵抗が始まった。
玄関で転がる可愛いだけの抵抗であることを、本人は知らないらしい。
騒いで家族を起こすのは嫌だったので、お猫様の顔周りを撫で回し媚を売っておいた。
これで騒がれる心配もない。
すぐにでも布団に潜り込んで寝たかったが、タバコの匂いが喉にこべりついていた。
これでは寝られない。悪夢を見そうだ。
静かにリビングに向かった。
冷蔵庫の中から自家製の梅酒を取り出し、無造作に氷を突っ込んだグラスに注いだ。
完全勝利の美酒は、梅の味がかなり濃かったが、喉にこべりついていた匂いは、綺麗に剥がれていった。
今日もなんとかいい夢が見れそうだ。布団に潜り込み、今日の最後を締めくくる。
どうか兄にバレませんように。
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