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1-2
彼は吉崎の威嚇にも似た態度など無視し、首に引っ掛けていたヘッドホンを一度人差し指で弾いた。ビニール傘を持ち、ゆっくりと足を運ぶその足元は、やはり濡れている。目的地に着いた頃にはきっと、もっとずぶ濡れだ。軽く引き摺っているデニムの色は、すっかり変わっている。
自動ドアが開き、彼はビニール傘を差した。窓硝子の向こう側をじっと見詰めていると、路上に並んだ紫陽花が目に付いた。数え切れない雨を幾つも弾いてコンクリートに当たる騒がしい音が、吉崎の耳に残る。男の後ろ姿がビニール傘からぼやけて見えた。怠惰にだらしなく歩く後ろ姿が、妙に紫陽花と映える。こんな歌詞の歌がどっかにありそう、吉崎の脳裏には無意識に膜の貼ったような残像が残った。
紫陽花がここに咲いていたことを吉崎は、この日まで知らなかった。今まで何度も、この場所に来ていたのに。
「おかえり。あれ? 何で濡れてるの? 傘持って行かなかった?」
「持ってったんだけどよー」
寮に戻り、自室を開けると、ルームメイトの田嶋広樹が目を瞬きさせながら驚いている。吉崎は自分の着替えを入れている収納を開け、タオルを取り出して頭を拭いた。田嶋に経緯を説明しようと思うのに、どうしても上手く言葉が出て来ない。別に疚しいことをした訳でも無ければ、傘を貸したという人助けをしたのにもかかわらず。何か歯切れが悪くなる。
口籠っていると、田嶋は自分の机の上に置いていた雑誌に目をやり始めた。内心安堵しつつ、またか、とも思った。
「お前また、同じ小説読んでんの? 飽きねえな」
田嶋は読書家だ。暇があれば小説を読んでいて、今はお気に入りの作家が居るらしい。同じ作家の本を何冊も購入していて、気に入った小説は繰り返し読んでいる。
「今日は違うよ。好きな作家さんが雑誌に載ってるから買ったんだ。今まで雑誌なんて載らなかったのに、やっばり本屋大賞獲ると違うよね」
「へえー、分かんねー」
彼はこうして、好きな話を目を輝かせながら喋る。この作家さんのこの表現が好き、この部分が好き、それを吉崎に手振り身振りで必死に伝えようとする。吉崎にはまるで興味の無い世界だけれど、不思議にも面倒に感じなかった。趣味も性格も違うのにウマが合う、田嶋と居ると吉崎は、それを実感する。要は、吉崎は田嶋の、一生懸命必死に生活する様に好感が持てるのだ。自分とは違う。毎日毎日、つまんねーな、と日常に唾を吐くような鬱屈した何かは持っていないだろう。
何の雑誌だろう、と吉崎も覗き込んだ。田嶋が見ているページを同じように覗くと、思わず息を飲んだ。それから口が開いて、空気が一気に入って来て咳き込む。咳払いをすると横から、大丈夫? と問われ、手を振って制した。
「小杉、遼太……」
「そう! 吉崎にも何度も話したろ? 今この作家さんめちゃくちゃ好きなんだよね」
「え、これって本名?」
作家ならペンネームがあるはずだ。だけれどこの雑誌に載っているのは間違いなくあの男で、ということはペンネームを書いて吉崎に渡したということになるのか。つい先程起こった現実と、紙の中に収まっている写真の、顔と名前がまるで一致しない。ただ、彼の名前を何度も聞いたことがあったということには合点がいった。だからか、と。
「どうした? 今まで無関心だったじゃん」
「あー、いや別に」
「本名なんだって。ペンネーム考えるのが面倒だっていう単純な理由だってさ」
「……ふーん」
会話という会話はほぼしていない。それなのに何故だか、あの不精な態度を一瞬でも覗けば納得出来てしまう。
濡れ鼠のように現れて終始茶化すような口調で話したあの人。煙草を買って三百円しか財布に入っていないあの人。学生さん、と呼んで最後はガキんちょと揶揄ったあの人。デニムの裾を濡らし、サンダルで面倒そうに歩いていたあの人。ビニール傘に映るぼやけた姿と紫陽花が妙に映えて見えたあの人。
あれを見るまで、その花の存在すら捉えなかった自分の視覚。
その人がこの雑誌の中で、同じ銀縁の眼鏡と無精髭で、格好だけは一人前に見栄えのいい姿を見せている。
「まじすか」
ぼそりと呟くと、吉崎はチノパンのポケットに入れた、紙切れの存在を思い出した。そんでこれは俺の連絡先、彼は確かそう言った。あの傘を明日返す、とも。だから何処かで聞いた名前だと、名前を見た時に感じた。それが急に脳裏を過る。
「そういえば吉崎、洗濯物どうしたの?」
「あ、忘れた」
「え? 何やってんの、意外とボケてるよね」
「うるせえよ」
紫陽花とあの後ろ姿のせいだ。吉崎はばつが悪くなり、頭を掻いた。すっかり頭から抜け落ちていたのだ。コインランドリーに自分の洗濯物を置いていたことを。はあ、と息を吐いていると、窓から光が当たるのを感じた。晴れてる、小さく言うと田嶋も、ほんとだ、と窓を眺める。
待ち合わせ場所、着いたかな。吉崎は何気無く考えた。ずぶ濡れのあの人は今頃、傘を差さずに歩いているのか既に待ち合わせ場所に着いたのか、それを吉崎が知ることはない。
ただ、今頃あの紫陽花は太陽光を受けて、きらきらと窓硝子に反射しているだろう。コインランドリーにもう一度行った時、雨に濡れて光を弾く紫陽花を見るのも悪くない、そう思った。
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