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   置き去りにした洗濯物をコインランドリーに取りに行き、寮の自室に戻るとまた、田嶋に聞かれる。さっき何で濡れてたの? と。口籠ると今度は、何かあった? と彼は多少危惧しているようにも見えた。  吉崎は息を吐いた。はあ、と小さく言いながら呼吸をすると、何故だか現実に起きたことを整理出来た気がした。例の雑誌を見て、少なからず吉崎は動揺していたのだ。出来事と脳が一致しない。浮ついた曖昧な感情があった。ただそれは、ゆっくりと呼吸したことで、多少紛れた。  あのさあ、吉崎は頭を掻いて、田嶋に言った。どちらにせよ、ばつが悪い何か疚しさがあることは確かだ。だけれどそれが、何の理由を持ってしてそこに至るのか、それは分からなかった。  事の顛末を説明することに時間は掛からず、初めは、うんうん、と相槌を打っていた田嶋が目を見開いて口を震わせたのは、吉崎が話し始めてから数分後のことだった。 「え、ちょっと待って」 「待つよ」  吉崎が言うと田嶋は、椅子から立ち上がりうろうろと室内を歩いた。時々どこか見上げ、小さく声を出して、また歩いた。的外れにも吉崎は、こいつ今日も変なTシャツ着てる、と思った。彼はいつも、妙な言葉が書いてあるTシャツだったり要はダサい洋服を着ているのだ。おれのTシャツあげようかな、と意外にも冷静だった。田嶋が慌てるように手を動かしたりうろうろしているのを見ていると、吉崎は逆に、第三者的な気分になる。 「吉崎!」 「は、はい」 「電話しよう!」  はいメモ出して。田嶋がこれほど積極的に意見したことはあっただろうか。ルームメイトになって早二年、思い返す限り始めてのことのように思う。掌を吉崎に差し出す仕草を見ながら、彼の厭わない行動力に若干引き気味になる。引っ込める気配のないその掌に、仕方なく吉崎はチノパンのポケットに手を突っ込んだ。取り出すと既に皺くちゃのそれは、皺に沿って多少インクが寄れている。雑に扱われている文字に、吉崎は何となく目の前が揺れる。  吉崎が持っているメモを覗き込む田嶋は、感嘆の声を上げた。というより、声であるのか呼吸なのか分からない。息を思い切り吸うような、不可思議な声だった。その後、わあー、と言った彼を見た吉崎は、お前ただのファンだな、と思わず言った。田嶋は隠すこともなく語気を強め、そうだよ! と返す。そこの感覚が吉崎には、掴めないでいた。何しろあの男は、三百円しか財布に無いだらしのない大人だ。吉崎の中での小杉という男は、作家でも何でもなく、ただの男だった。 「ほら、早く電話しなよ」 「え? 今?」 「そりゃそーでしょ。後から掛けろって言われたんだろ?」 「まあ」 「しかもお礼してくれるって?」 「言ってましたね、何だかね」  お前どんだけ押すの、そう言うと田嶋は、そりゃ押しますよ、と呆れるように息を吐いた。しばらく無言で、二人は賭け事をするように目を合わせると、根負けした吉崎はスマートフォンを取り出した。言い訳のように、出ねえかも、と言った。そこに田嶋の返答はなかった。  メモに書いてある数字を、吉崎はゆっくりと押した。通話ボタンをタップすると、当然コール音が鳴る。掛かった、と小さく言うと、何故だか田嶋が、よし、と言った。スマートフォンを耳に当てながら、何でお前のテンションが上がってんだ、と思った。コール音は何度か鳴った。しばらく応答は無く、出ないか、と安堵する反面、あの無防備な声が聞けないことをどこかで、惜しむ気持ちもあった。小さく息を吐き、切ろうとした。その時だった。 「もしもし」 「え、あ」 「おーい、誰だ?」  吉崎は口を噤んだ。唾を飲み込み、喉の鳴る音を聞いた。言葉が出ない。どこか怠惰に伸びる声が、吉崎の耳に通る。すると横から、ちょっと何黙ってんの怪しいだろ! という田嶋の小さくも刺激する声がした。そこでようやく、吉崎も息を吸った。コインランドリーで、それを言おうと思った。が、先に声を出したのは小杉だった。 「お前、学生さんか?」  もう一度唾を飲んだ。ごくり、という音が、こめかみの辺りに通る。 「そう、です」 「明日の十八時、コインランドリーに居ろ。傘返す」 「いや、本当に傘は要らねえ、です。はい」  何でこんな急なんだよ、と内心舌打ちをしたくなった。 「まあまあ、ついでにちょっと頼みてえことがあんだなー。美味いもん食わせてやっから」 「え、何ですかそれ」 「今話すのは面倒くせえ。とりあえず明日だ。じゃあな、仕事中なんで切ります」  は? と吉崎が聞く前に、その通話は終わっていた。ツーツーという呆気ない音だけが今は聞こえていて、吉崎もスマートフォンを耳から離した。しばらく呆然としたものの、よくよく考えてみたら、何て勝手な言い方だと急に腹立たしくなる。眉を顰め、口を噤んだ。すると横から田嶋が、ねえなになに? と興味津々で聞いて来る。吉崎はスマートフォンを自分の机の上に置き、割と大きく息を吐いた。 「明日の十八時、コインランドリーに居ろってよ」 「傘返すって?」 「知らね。ついでに頼みごとがあるから飯食うんだってさ。知らねえよ、もう。何なんだよあいつ、自分勝手過ぎるだろ」  作家って職業はこんなもんか? それともあの男が特別そうなのか。吉崎には大人との接点が少な過ぎて分からない。吐き出すように田嶋に言うと、彼も黙っている。ショックでも受けたか、と横目で見ると、田嶋は目を輝かせていた。 「え、何お前、何なの」 「凄い、凄過ぎる。小杉遼太とご飯とか、頼みごとって何だろう、ねえ何かな」 「知らねえよ!」  そう言うと田嶋は、またぶつぶつと一人で何か喋っている。どうしよう、そんな言葉が小さく聞こえていて、お前が動揺することか? と呆れた。 「ねえ、何着て行くの? ご飯食べるってファミレスとかじゃないよ? 多分」 「はあ? もう面倒くせえなあー」  吉崎は田嶋を横切り、自分のベッドに寝転んだ。この寮は二人で一部屋使うのがルールで、二段ベッドで眠る。吉崎は下のベッドを使っていた。軽く目を閉じ、何着て行くのって言われても普通に普通の洋服しかねえよ、と考えながら、寝返りを打った。さすがに田嶋ほど趣味の悪いTシャツは着ないけれど、それでもTシャツとチノパンかデニムか、それくらいしか用が無い。ついでに言うと、洋服に対してあまり興味がないのだ。更に言ってしまえば、小杉には会いたくないと思っている自分が居た。紫陽花に初めて気付いてしまうほど視覚が変わった自分に、まだ追い付けていないのだった。雨のカーテンの向こう側に居るようなぼんやりと映る姿を思い出すと、体が何やら覚束なくなる。それが無性に嫌だった。怖かった。  田嶋に背中を向け、吉崎は寝転がっていた。すると彼は、ちょっと助っ人呼んで来る、そう言って部屋から出た。助っ人? と一瞬体を起こしたものの、既に田嶋は居なかった。この微妙な感覚が分かる誰かが居るなら、それこそ助っ人を呼んで欲しいと思った。つまらない日常に辟易しながらも、実際世界が変わるのは怖い。小杉はそれをいとも容易く変えてしまう気配を孕んでいる。吉崎はそう感じていた。だってあんな大人知らない、吉崎はまた、横を向いて目を閉じた。  普通なら三百円以上持っているし、待ち合わせがあるくせにあんな風にのんびりと振る舞えるものだろうか。吉崎とは交わる点が少な過ぎて、これで何を自分に頼むつもりなのだろう。わっかんねえ、独り言ちて溜息を吐くと、部屋のドアが開いた。 「吉崎ー、助っ人連れて来た」  田嶋の声に今度こそ起き上がると、上級生の寮生が立っていた。ぎょっとして口を開けると、彼もこちらを見ている。この上級生とは、時々会話はするのだけれど、正直取っ付きにくいのだ。 「か、片岡さん」  片岡は三年生だ。彼は口調が荒く行動力もあるからか、下級生からは多少恐れられている。その反面、取り巻きも居る。もう一人、彼と同室の島田という上級生が居た。この上級生は皆から信頼が厚かった。二人が揃うと、妙に頼もしい。ただ吉崎は、片岡の行動力の高さが苦手ではなく、時々喋ることがあるのだった。 「吉崎お前、飯食いに行く服がないそうだな」 「え?! は、はい、まあ」  ベッドから降り、田嶋を見た。彼は特に気にはしていないようで、こいつは一体何を話したんだと不安が過ぎる。が、彼のことだから余計なことは話していないだろう。そこの信頼はあった。何故なら、片岡のような一見強面の上級生にも、一切不快感を与えず話し掛けられるのは田嶋くらいだからだ。本人は気付いていないだろうけれど、懐に入るのが抜群に上手い。  立ち尽くしていると、片岡は持っていた洋服を吉崎に手渡した。ほら、と言われたので思わず、ありがとうございます、と返した。 「あの、何ですかこれ」 「見れば分かるだろ。シャツとパンツだ」 「いや、分かりますけど何で?」 「田嶋の奴が、お前が久々に親御さんと会うけど服がないって言ったからな。これなら悪くない筈だ。まあ、楽しんで来い」  汚すなよ? そう言うと片岡は、部屋を出て行った。ありがとうございました、吉崎と田嶋は会釈して言うと、片岡は手を上げた。あっさりと彼は居なくなり、部屋のドアは閉まる。田嶋を見ると彼は、上機嫌でまた机に向かった。小杉が載っている雑誌に一度目をやった後、本棚から何やら本を出しては眺め、また本を出しては眺めている。なあ、と声を掛けると、彼は吉崎を見た。 「ありがとな」 「ん? 何が」  嘘を吐いてくれていたこと、こうして困ると自然と手を差し伸べてくれること、一歩踏み出すように背中を押してくれること。それは言えず、吉崎は目を伏せた。軽く首を掻いてから、小さくかぶりを振った。 「何で片岡さんが助っ人?」 「あれ? 知らないの。片岡さんめちゃくちゃお洒落らしいよ?」 「嘘だろまじか!」  思わず大きな声を出すと、田嶋は笑った。そして、本を一冊選び、よし、と小さく声を出した。 「僕も和泉から聞いたんだよね」 「何で和泉?」  和泉というのは、同級生で寮生の一人だ。田嶋と似た空気を持っているように吉崎は思う。穏やかなのに芯はある、そのように見える。 「ほら、和泉って島田さんと仲良いだろ? 島田さんと片岡さん同室だからさ、それで知ったんじゃない?」 「ほー」  なるほど。呟くようにいうと吉崎は、手に持っているシャツとパンツをようやくきちんと見る。サイズ問題大丈夫か? と多少の疑問はあるものの、まあいいかと放っておいた。自分の体温で温もってしまったそれを広げ、汚すなよ? という言葉を思い出すと背筋に寒気が走る。左の二の腕を右手で摩るようにしてやり過ごしていると、今度は田嶋が声を出した。お願いがあるんだけど、それはやけに神妙な声で、吉崎は首を傾げる。 「サイン貰って来てください!」  差し出された本と言葉に溜息を吐きつつも、仕方ねえなあ、と言ってしまう。その時不意に思った。あのだらしない男にはこうして、こんな風に不特定多数の誰かから愛される作品を作る力があるのだと、何気無く考えた。爪先がざわざわと揺れる理由を、吉崎は未だに分からない。  翌日の十八時前、吉崎は片岡から借りた洋服を着て、コインランドリーの中に居た。心配していたサイズは特に問題無く、それとなく形になった。出がけに片岡に出会い会釈をすると、悪くねえな、と一言だけ言って去った。意外にも気にされていたらしい。吉崎は知らなかった人の絶妙な優しさを知り、何故だかむず痒くなった。
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