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 嘘に使われてしまった「親御さん」を、吉崎はコインランドリーで思い出した。ほんの数日前、母親とは電話で話している。いつも通り、元気? 学校はどう? 友達とは仲良くやってる? と矢継ぎ早に聞かれ、その変わらない口調に吉崎もまた、元気だよ学校は楽しい仲良くやってる、と伝えた。彼女はお喋りだ。山あいの農家の生まれで、その農業を彼女は引き継いでいる。よく働きよく食べてよく喋る、とても強い女性だ。吉崎はずっと、その稼業を引き継ぐつもりでいた。彼女もそう思っているのだと。だけれど母親は言った。あんたは好きなことを見付けなさい、と。元々勉強すること自体は苦手ではなく、成績は良かった。他県のレベルの高い高校からの推薦も来ていて、迷っている所に母親のその言葉を聞いた。かといって、踏み出す勇気もなかった。自分には何も無い。その期待に応える術を持っていなかった。それでもここに来たのは、何かを見付けるかもしれないという期待と緊張を持つことが出来たからだ。せめて母親が誇りに思える自分になれたら、と。  初めてこの土地に来た時、慣れない環境にうんざりした。山ではなく海が近くて、歩くと時々潮の香りがした。電車に乗れば繁華街もすぐ側にある。不意に感じるその差異に吉崎は、この土地の名前は何だろう、と知っているくせに言葉も何も通じない場所へ放り投げられたような感情を覚えた。それでもここに居るのは、田嶋を始め、寮生の仲間が居るからだ。彼等は皆、同じ境遇を抱えている。  コインランドリーの窓に、吉崎は手を掛けた。空調が整っているこの中から触れると、ひんやりと硬い隔たりのように思えた。その時、一台の車が、路上駐車をするのが見えた。ハザードランプが灯り、窓が開く。そこから覗くのは、銀縁の眼鏡に無精髭の、昨日と何ら変わりのない姿の男だった。吉崎は何故だか、辺りを見渡した。  やっぱりおれか、と半ば他人事のような感覚に、頭を掻いてから外に出た。 「助手席乗れ」 「はあ」  車が来ないことを確認し、吉崎は助手席のドアを開けた。こんにちは、と声を掛けられたので、どうも、と会釈してから乗った。シートベルトを着け、何故自分がここに居るのか分からないまま車は走り出した。  傘は後ろに置いてある、と彼は言った。それにも吉崎は、はあ、としか言わなかった。車内は静かで、彼が何か、例の頼みごととやらに触れることはしなかった。それが妙に気不味く感じ、吉崎は息を吸った。 「あの」 「んー?」 「作家さんなんですね」 「ああ、知ってたんだな。なら話は早いわ」 「例の頼みごとですか?」 「そーそー」  小杉の声の調子が余りに普通で、吉崎は少しだけ戸惑った。作家さん、と言葉に出したのは、多少出し抜いた気持ちが無きにしも非ずで、それなのにこの男は、何の動揺もしていない。つまんねーの、吉崎は口を尖らせた。 「友人があんたのファンだそうで、何冊も本買ってるんですよ。サインも頼まれたんです」 「おー、毎度ありがとうございます」 「何すかその、金づるみたいな言い方は」 「実際そうでしょ。これでメシ食ってんだからよ」  最低だなこいつ! あんぐりと口を開け、吉崎は息を吸い込んだ。駄目だ腹立つ、と思いつつ、息を吐くことで耐えた。 「お、着いたぜ」  コインランドリーからさほど遠くない場所にあるパーキングに、彼は車を停めた。ちょっと歩くぞ、と言うと、運転席から早々に降り、既に歩き出している。吉崎も慌てて、彼に付いて歩いた。パーキングのすぐ側にある狭い脇道に入り、少しだけ歩いた。そこには普通の民家が並んでいて、緑が見えた。あ、と思った。この景色、何かに似てる、と。故郷にある似通った景色に吉崎は、少しだけ安堵する。一見見逃しそうな場所に、小杉が入って行くのが見え、吉崎も続いた。古民家を改装したような建物に、木とガラスで作られた引き戸の入り口。わざわざ洋服を借りる必要もなかったような場所で、吉崎はばつが悪くなる。  入店すると、酷く上品な男性のコンシェルジュが一言、いらっしゃいませ、と丁寧に出迎えた。小杉様お待ちしておりました、と頭を下げる男性に対し、小杉は酷くいい加減な口調で、はいはいどーもー、と軽く会釈をするだけだった。前言撤回借りて良かった、男の慣れた様子を客観的に見て吉崎は思わず項垂れた。  予約済みだったようで、席に案内されて座った。そこは窓際の席で、綺麗に整備された園庭が見える。そこもまた、故郷にある緑と似通っている。田畑で遊んでいた幼い頃の思い出が、一瞬だけ通り過ぎた。夕暮れの薄暗さと相俟って、どこか艶やかに感じる。目の前のテーブルは古びた木で作られているものの酷く風情のある作りで、ナフキンが置かれていた。肩肘の張る場所で、何をどうしていいのか全く分からない。 「初めてか? こんな場所」 「そりゃそうでしょ」 「そんな緊張する場所じゃねえぞ。適当に食いもん来るから適当に食っとけ」  その言葉に、吉崎は吹いた。適当に来るから適当に食っとけってあんたが連れて来たんじゃねえのかよ、と思ったのだ。 「作家さんってしょっちゅうこういうとこに来るからそういう適当なこと言えるんですか?」 「まさか。お偉いさんとかなー、それ交えた打ち合わせとか。そういう時だけ。食いもんなんて食えりゃいいし、そん時美味けりゃ儲けもんってくらいだろ」  小杉もまた、園庭を眺めている。肘を付き、どこか曖昧な目線で、そこを眺めていた。彼の目にはこの景色が、どう映っているのだろう。作家という特殊な人間の目には。 「そういや学生さん、名前何だっけ」 「それ知らないでここまで連れて来たんですね」 「だってお前、俺に言ってねえだろ」  聞いてねえって話だろ、とは言わなかった。 「吉崎圭一です」 「ふーん、吉崎くんね。はいはい」 「それであの、頼みごとって何ですか?」 「まあー、それはあれだ。追々」  彼が言った直後、先程のコンシェルジュが、前菜の盛り合わせになります、と料理を運び始めた。その時、男性が言った。今日アルコールの方は? と。小杉はそれに、今日は車なんでまた今度楽しみにしてます、と表情を変えた。吉崎と話す時とはまるで違う目線に、この男は大人なのだと目の当たりにする。当然だった。車の運転も慣れていて、作家で、吉崎からしたら敷居の高い店に於いても彼は一目置かれていて、考えてみれば今こうして吉崎と居る状況の方が間違いなく異常だ。 「おい。マナー気にすんなよ? 箸で食え。俺も箸で食うから」 「え、あ、はい」  かと思えば、こうしてまた同じ位置に居るように見せ、この葉っぱ美味えな、と不相応な言葉を話したりもする。いただきます、と吉崎は言った。授業では習っていないことばかりで、頭が追い付かなかった。だから今、知っている範囲で正解と思える言葉を声に出した。すると彼は、どうぞ、と目を伏せて笑った。それからは、特に当たり障りのない会話をした。高校何年? 勉強大変か? だとか、そういったくだらない話だった。その話す仕草を見ていると、彼の言う頼みごとの内容も掴めないし、彼が本当に作家であることさえ、段々と曖昧になって来る。 「あの」 「んー?」 「おれの友人が、本気であんたのファンなんですよ。だから聞いてもいいですか?」 「どうぞ」 「どうして作家業をやってるんですか?」  切り出すのは自分だと思った。この男は多分、核心を突くことを自分からはしないだろうからだ。どこか飄々として掴めない。もっとも、高校生の吉崎がそのど真ん中を探ろうとすることがおかしいのかもしれないけれど。 「仕事だからだ。書くことが仕事、それだけ」 「え、何それ」 「じゃあお前は、何で学生やってんだ? 吉崎くん」  吉崎は、箸を止めた。学生にこの男は、何を聞いているのだろう。何で学生をしているのかなんて、高校生だから、勉強をするから、親を安心させたいから、だから? だから学生をしているの? 瞬きを何度もして、吉崎は口を噤んだ。眉を顰め、思い知る。  くっだらねえ、たったそんだけの理由か。  自分の為、なんて言葉は一瞬でも思い浮かばない。もっと自分勝手でいいはずなのに、本当は。だから母親も、あんたは好きなことを見付けなさい、そう言ったはずなのに。 「実家は、農家なんです」 「へえー」  おれは何を。吉崎はそう思った。暗くなってしまった園庭を眺め、見えなくなった緑を見て、言葉を続けた。 「母親は農業をしています。よく喋る元気な人で、おれは推薦もらって今の高校に来ました。成績だけは良くて。母親はおれに、好きなことを見付けなさいって言いました。それでこっちに来たんです。でも見付からない。何も」 「なるほどね」 「父はおれが十歳の頃亡くなりました。とても厳格な人で、仕事の出来る人でした。そう聞いています。おれはあんまり喋った記憶が無くて、実際おれをどう思ってたのか、もう分かりません。分からないんです。あの人が何を考えていたのか、おれに何を求めていたのか」  吉崎は小杉を見なかった。いや、見ることが出来なかった。何を言いたいのか、それも分からなくてただ喋っているだけだ。関係のない第三者に。独り言のように。 「死者に馳せるのは」 「え?」  目線を動かすと、小杉はしっかりと吉崎を見ている。いつものように、怠惰な無防備さはない。 「死者に対して馳せるのは、生きてる人間の特権だ。特別な権利。好きに使えばいい」  何思ったって自由だ、最後小杉はそう言った。吉崎はただ思った。ずるい、と。この人はやっぱり、自分の世界を変えようとする。何の気なしに、いとも容易く。 「それは、作家としての考えですか?」 「いんや、俺の持論」 「そうですか」  吉崎はわざと愛想無く答え、箸を持った。もう随分と口にしていない気がした。こんなにも美味しそうな、前菜やパスタやメイン料理が並んでいるのに。本当に適当に料理が並び、それを適当に食べていた。口に入れると、思わず声が出る。美味い、と。 「やっぱいいな、お前」 「え?」 「吉崎圭一くん」 「は?」 「俺の次回作、あなたにモデルになってもらいたい。どうしても。よろしくお願いします」  頭を下げる男を見た吉崎は、コインランドリーを思い出した。毎日毎日、つまんねーと思いながら眺める景色。紫陽花も映らなかった視界。ぐるぐると、同じ毎日が巡る。  やっぱりずるい、この男はおれの世界をあっさりひっくり返すんだ。    
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