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  「恋愛小説を書いてみませんか?」  小杉のマンションでそれを提案されたのは、まだあのコインランドリーで吉崎と会う以前のことだった。  恋愛小説、と持ち出したのは、小杉の編集担当である井上遥だ。彼女は小杉がデビューした五年前からずっと、編集として付いている。もっとも、彼女は他の作家の担当もしているのだけれど。  遥がそれを提案した理由を、小杉は分かっていた。小杉が今まで、一度も恋愛を題材にした小説を書いて来なかったからだ。これまで出版した本は、ミステリー、政治経済、本屋大賞を受賞した作品はサスペンスとドキュメンタリーを融合させた物、という作風で、その中に愛情という人の感情を交えたものはあれど、恋愛を絡めた作品は一作も無い。  というのも、小杉はまず、他人を対象に朽ちて吸い取られるほど恋に没頭することがなかった。小杉は即答した。無理でしょ、と。すると彼女は平然と言う。だから書くんですよ、と。はあ、と息を吐くように返答するものの、全く気が乗らない。 「あのねえ、あんたの策略は分かってんですよ、ね? 書いたことない人が恋愛物書いたら売れるってやつでしょ、どうせ」 「分かってるじゃないですか」  何年の付き合いだよ、呆れて独り言ちるように声を出すと、彼女は不敵に笑う。 「例えばそうだな、高校生との純愛ってどうですか? 同性愛なら尚良いと思います」 「はあ? あんたもまた、突飛なこと言うね。つーか純愛って何だよ。わっかんねえなあー」  彼女との打ち合わせは、大体小杉の自宅マンションだ。元々都内の安いボロアパートに長らく住んでいたのだけれど、二年ほど前に引っ越した。遥からは度々、部屋も狭いし引っ越されたらどうですか? と提案されていたのだけれど、面倒ごとや手間が掛かることは元来避けて生活したい気質で、気が乗らなかった。  とはいえ、都内の生活に不満がない訳ではなかった。喧騒が常に間近にあるのは、どちらかといえば苦手な方だ。ただ、必要以外表に出なければいいだけの話だった。が、遥のあまりに執拗な提案が続き、最早提案ではなく強制なのだと知った。小杉は言った。都内ではなく適度に静かで交通の便が悪くない場所にする、と。すると翌日には、マンション押さえときました、と連絡が来たのだった。それがこの場所だ。  遥は仕事が早い。続けて、先生が何かを生み出しやすくするのがわたしの仕事です、そう断言した。そして、あの場所で続くとはとても思えない、と言ったのだった。  この土地に移り住んだのは、本が売れ出してからだった。海が近く、気分転換に散歩をするには丁度良かった。ただ、澄んだ海ではなかった。ゴミもあるし、どちらかというとやんちゃな土地だ。海があるイコール美しさが漂うのではなく、その無鉄砲さと不安定さの混同した部分が小杉の情緒を擽った。そして、潮の香りがした。多少距離があろうと、不意に鼻を掠める。  早朝は正反対に静寂が側にあって、波乗り達が身を寄せるように海の中に居る。波の音は、思った以上に静かだった。時々小杉は、無心でその姿を眺めている。煙草の匂いと、不意に香る潮の癖のある芳香が、悪くないと思えた。行き先も決めずに出歩くこともあった。その際、電車を使うことはしなかった。  この場所を即決したであろう遥の行動力や編集としての迅速な対応は、小杉にとって必要不可欠だった。遥の助力が無ければ、小杉は今、こうして作家としては働けていない。  ただ、恋愛物を書け、と言われても難しい。あの、後にも先にも他に誰にも居ない、という盲目的な感覚に全く寄れないのだった。例えば誰かに本能的に惹かれたとする、それが終わってしまったとする、何も手に付かなくなるほど伏せたとする、それでも人は生きるからだ。そして意外と人は、また同じような感覚を覚える人間と出会うだろう。運命の相手、とよく聞くけれど、運命の相手はそれなりの人数が存在する。  いつも仕事中に座る椅子は、凭れると音がする。長らく使い続けているそれは、錆が来ているのか軋むことが多い。ボロアパートとは違うこの部屋は、とにかくだだっ広かった。椅子に凭れて見渡すと時々、ここはどこだと疑いたくなる。  壁に作ってある本棚に埋まる本、テーブルの上は資料で溢れていて、あまり使っていない真新しいキッチンは他人事のように佇んでいる。ベッドは仕切り壁の向こう側で今は見えない。ひろ……、小杉自身がこの部屋を、時々他人事のように眺めていた。 「先生、聞いてます?」 「聞いてますよ、はいはい」 「誰かモデルになるような子が居たらいいですよね。男の子で」 「なあ、遥さんよ。決定なの、そのー恋愛物書くってのは」  小杉が言うと、遥は唖然として小杉を見ている。何言ってんの当たり前でしょ、と言いたげで、小杉はまた息を吐いた。 「わーかりました。探しときます」  遥はまた、にやりと不敵に笑った。お願いします、と頭を下げると、彼女はコーヒーを淹れるつもりなのかキッチンへと向かった。あんたの方がよく知ってるよこの部屋のこと、小杉は一度天井を仰ぎ見て、大きく息を吐いた。それからまた、パソコンに目を向ける。さあ、今日も仕事だ。眼鏡を一度掛け直し、手を動かし始めた。  その数日後のことだった。気分転換の散歩中、急に雨に降られた。今年の雨季は雨が多く、ゲリラ豪雨も珍しくない。やべ、と思ったものの、特に狼狽えることもなかった。どこかで雨宿り、と呑気に考えて辺りを見渡すと、左手方向にコインランドリーが見える。ここでいいかと、小杉は自動ドアの前に立った。開いたドアの中に入ると、そこには一人、年若い少年が椅子に座っていた。大きな窓硝子に頭を預け、ヘッドホンを耳に当てていた。小杉はその少年に、自然と目を向けていた。  濡れてしまった頭を掻くと、指先が湿った。親指で軽く擦るように濡れていた指先をなぞると、その湿度はあっさりと無くなっている。少年を横目で見遣ると、彼は音楽を聴くことに集中出来ないのか、ヘッドホンを外した。  いいねーこの他所者を受け付けない雰囲気、小杉は気付かれないように目を伏せ、剃っていない髭を親指でなぞった。この日は自宅マンションで打ち合わせがある予定で、それまでぶらぶらと散歩をしようと外へ出た。仕事もひと段落付いた所で、気分転換に歩いた。その矢先のことだった。  ああ電話、小杉は遥に、自宅にはまだ帰れないことを連絡しなければならなかった。でなければ、鬼のようにスマートフォンが鳴るからだ。着信履歴から、編集さん、と書いてある一番上をタップした。するとワンコールで彼女は出る。 「俺です。雨凄えんだよ雨宿り中」 「え、何やってるんですか。十五時に打ち合わせって言ってたでしょ?」 「ああーうん、はいはい」 「タクシー拾って」 「は? タクシー? 乗る金ねえでしょ」 「あるでしょ!」 「は? ねえよ」  おもむろに溜息を吐かれる。こういうことが頻繁にあるからだ 「今幾ら持ってるんですか?」 「ああー、三百円くらい。煙草買ったら無くなっちまった。はは」 「先生、いい加減にしてください。とにかく急いでくださいね」 「は? ああー、急ぎますよなるべくねー」 「もう、お願いします」 「はいはい、じゃあ後で」  その時、ふっと吹き出すような笑い声がする。反射的に見ると、当然少年が笑っていた。悪戯小僧のような少しだけ茶目っ気を含んだ表情に、小杉は目を取られる。  このコインランドリーに入った時に最初、彼は窓硝子に頭を預けていた。退屈そうに外を眺め、何かを持て余しているかのように。この世代だけが持っている特有の、自分の中にある可能性を否定して、それ以前にそんなものが存在することさえ知りもしない。自分には何も無いと、頭から信じている。屈折した自身との信頼関係。  勝手な倦怠感を滲ませた表情に、小杉は決めた。こいつだ、と。  その後、無理矢理連絡先を渡し、彼の傘を持ち帰った。これで少年からの着信がなければ、運命なんてこんなものだ。  ビニール傘を差して、自宅マンションに帰った。九階建ての最上階、玄関の前に彼女は居た。遅過ぎます、と無表情で言われ、ごめんね、と口先だけで謝った。悪怯れる様子も見えなかったのか、遥は息を吐いた。玄関を開け、部屋の中に入る。失礼します、と言う彼女に、はいはい、と小杉は言った。小杉はすぐに、仕事用の椅子に座る。この場所が、一番落ち着くからだった。遥は、コーヒー淹れますね、と流れ作業のような声を出した。 「原稿大丈夫だった?」 「特に問題ありませんでした。これから校閲作業に入ります」  今朝データで送ったのは、隔週で発売する雑誌のコラムだ。取り留めのない日常の話を、小杉自身の目線で描くというエッセイのようなものだった。 「なあ、遥さん」 「なんですか?」  彼女はちょうど、コーヒーカップを出した所だった。ワークトップの上に、それを置いている。 「見付かったよ。高校生の少年」 「え? え? ほんとに?!」 「いいんじゃねえかな、あいつ。雨宿り中に会って、連絡先渡したけどどうなんのかね。この先は分かんねえなあ」 「どうして! 先生のことだからどうせ適当に作家とも名乗らずに怪しさしかないまま渡したんでしょ?! もう! 辞めてくださいよそういうの! せっかく見付かったモデルさんなのに」  遥はコーヒーのことなど放って小杉に近付いた。パソコンと資料だらけのテーブルに、彼女は掌を付く。 「連絡が来なけりゃそれまでだろ。あんたの言う同性愛の恋愛小説ってのは、そんな単純に話が纏まんのか? 賭けに負けりゃ終わりだ」
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