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3-2
小杉が言うと、彼女は口を噤んだ。そして、そうですね、と観念したように呟いた。コーヒー淹れてきます、もう一度言って背を向けた所で、小杉はそれを止めた。待った、と言ったので、振り返る。何度か瞬きをしていた。
「コーヒーいいや。今日まだどっか回んの?」
「いえ、直帰の予定です」
「じゃあ大丈夫だな」
「一仕事終わったから?」
遥は目を細めた。
「さすがよく分かってらっしゃる」
椅子から立ち上がると、また軋む音がする。仕切り壁の向こう側にあるベッドまで歩きながら、小杉は首をぐるりと回した。ああ肩凝った、今週は締め切りを三本抱えていた。それが全て終わった。どれも小さな記事の仕事ではあるのだけれど、働くこと食うこと生きること、ここに全て通ずる。小杉の仕事は書くことだ。食う為寝る為生きる為、その手段として書く仕事をしているものの、惰性は一切無い。習慣と同じくしては生きていけない。
ベッドが置いてある壁の奥は、昼間でも光が当たらない。昼間に横になることも仕事柄多いので、ここも助かっている。大きなベッドはスプリングがよく効いていた。以前住んでいたアパートで使っていた寝具は、使い古された薄くて硬い敷布団だった。これは嫌です、と遥によく言われたものだった。
「はい、寝て」
「ベッド買って良かったですよね。寝る度に思います」
「はは、編集さん様様だな」
横たわる彼女の上に跨り、小杉は遥のノースリーブニットに手を掛けた。親指の第一関節の辺りに、柔い肌が触れる。吸い付く様子に、この感触も久々だ、と単純に感じた。もう一度首をぐるりと回した所で、小杉のスマートフォンが鳴った。デニムの後ろポケットから取り出すと、知らない番号が並んでいる。一度首を傾げ、まあいいやと放っておいた。すると彼女が、仕事の電話だったらどうするんですか? と問うた。ごもっともで、小さく言ってから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「え、あ」
「おーい、誰だ?」
小杉の口調を聞いて、下から小さく声がする。そんな言い方ないでしょ仕事相手だったらどうするんですか、と相変わらず口うるさかった。誰かと自分で聞いておいて、その後で気付いた。
「お前、学生さんか?」
「そう、です」
掛かってきた。小杉は唾を飲んだ。頭の中に、恋愛小説、という言葉が過ぎる。何かを持て余している表情、つまらなそうにヘッドホンを耳に付け、音楽を聴いているのかいないのか、あの少年は歌詞の言葉の意味なんてきっと知らない。脳裏に、砂嵐が起きたように靄が掛かった。ざざっと雑音が過ぎる中、小杉は明日の約束を取り付け、仕事中なんで切ります、と通話を終えた。
スマートフォンをフローリングに放り投げると、機械がぶつかる鈍い音が通り過ぎる。それを聞いた後かそうでないか、知らないまま目の前の女に口付けた。眼鏡、と言われたので外し、もう一度口付けた。そのままノースリーブニットの中に手を入れ、慣れた触り心地の肌をなぞる。長い口付けを終え、耳、首筋、と順に唇で肌の形を確認した。段々と荒いでいく女特有の呼吸を耳に感じながら、あの少年は今頃何をしているのかと考えた。学生だから勉強か? それともコインランドリーの帰りなら洗濯物でも畳んでいるのか。小杉には分からなかったから、明日聞けばいいと思った。
彼女との関係は、もう長い。かといって互いに恋愛感情は無かった。性欲処理の為のセックスは、随分と長らく続いている。遥自身も、要は仕事の一つでしょ? と達観していた。興味本位で、他の作家とも寝てんの? と聞いた。すると彼女は、あなたに言うといつかネタにされそうだから秘密、と軽々しく答えた。面白いな、と笑うと彼女は、これでも好みはあるんですよ、と戯けたように言う。性欲は否が応でも溜まるものだった。好きな相手が出来れば変わるのか、と考えたこともあった。実際、付き合っていた女性も居た。作家になってからもそれ以前も。ただ、長くは続かなかった。書くことが生きる術だったからだ。あなたと一緒に居ても寂しいだけだわ、と言われることもあれば、生きて行く為に恋愛なんて要らないんじゃない? と言われたこともあった。確かに、と全て納得したものだった。女性の目の良さにはいつも、小杉は感心する。考え方に称賛し、ほう、と言うと、最後には殴られた。その内、もう面倒だと諦めた。小杉には、書くことイコール生きる術、食う為眠る為生きる為。それしかなかった。
その翌週の土曜日午後、初めてこのマンションに、少年がやって来る。前日に電話をして最寄駅を教えると、後はスマホのナビで行きます、と彼は言った。美味い食事が効いたのか否か、それは不明なまま、彼は作品のモデルの件に首を縦に振った。分かりました、と言うだけで、後は普通に食事をしただけだった。寮で生活していると言ったので、食事を終えてからその寮の側まで車で送った。別れ際に、おれは何をすればいいんですか? と彼は聞いた。小杉はそれに、また連絡する、と答えた。実際、何をどうするのか、小杉自身にも分かっていないからだ。分かりましたお休みなさい、そう言って会釈をされたので、じゃあまた、と小杉も返した。とりあえず、寮の玄関に入るのを見届けてから、小杉も車を走らせた。
インターホンを鳴らして玄関先で待つ吉崎は、少しだけばつが悪そうだった。というより、状況が未だに把握出来ていないようだ。どうぞ、と小杉が言うと、お邪魔します、と彼はぼそぼそと声を出した。
「えーっと、最近の高校生って何飲むんだ? コーヒーでいいのか?」
「今はいいです。昼メシ食ったばっかなんで」
「あっそ」
適当に座んな、と言うと、吉崎は小杉があまり座らないソファに腰掛けた。遥が原稿チェックをする時に使うくらいで、後は特に用はない。
「あの、聞きたいんですけど」
「はいどーぞ」
そりゃそうだ、小杉はそう思った。疑問しかないだろう、この状況は。
「何でおれ? 何をすればいいんですか?」
いつもは座らないソファに、小杉も腰掛けた。意外と座り心地がいいのだと、この時初めて知った。
「まず一つ目。何でお前か」
太腿に肘を付き、多少前屈みになると吉崎の顔を見上げる形になる。
「自分には何も無いってツラに惹かれたから」
あの日、吉崎から家族の話を聞いた時、小杉はその表情の美しさに息を飲んだ。この少年はまだ、自分の可能性を知らない、その手の中に何が埋まっているかも知らない、未来があることを知らない、無知故の遣る瀬無さが、窓の外に馳せた表情に滲んでいた。この表情をきっと、小杉にはもう出来ない。いや、小杉が同じ世代だったとしても、出来なかった。窓から日暮れの細かい艶が、吉崎の顔に当たっていた。美しい少年だと、小杉はその時知った。
「二つ目。同性愛の恋愛小説を書きたい」
「へえ、大変ですね。頑張ってください、あんた作家だろ?」
「残念ながら書けねえんだなー。だからモデルが必要で、そこでお前ってわけだ」
「はい?」
「疑似恋愛してよ。俺、人を好きになったことねえから」
何度か瞬きをした吉崎は、ようやく理解したようで、口を大きく開けた。隣に座っていた筈が、挙動不審な動きをした後であからさまに距離を取る。まあまあ、と言うと、彼はかぶりを振った。
「バイト代は払う。勿論学業優先。疑似恋愛っつっても別に特別何かするこたねえ。適当に何か話してくれてりゃいい」
それくらい出来るだろ、と淡々と声を出すと、吉崎は小杉を見据えた。その目はどこか、何かを訴えるようでもあれば、恨みがましくも見えた。小杉にはまだ、真意が掴めない。
「今日は、どうすればいいんですか?」
「お、引き受けてくれんの?」
「仕方ねーでしょ。先週引き受けたのはおれだ」
「かっこいいな、少年」
揶揄するように吉崎の背を叩くと、痛いですやめてください、と小杉の手を払った。少年の手の甲が、小杉の手首に触れる。女性のそれとは違う、少しだけ骨っぽくもあり、節も目立つ。冷えすぎてもいないし温もり過ぎてもいない。柔らかいのかそうでないのか、それもよく分からない。それなのに何故か、ほんの一瞬だけ、この指先に触れたいと思った。
ほんの一瞬だけ。
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