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分かりました。  敷居の高い店で食事をしながら、吉崎は首を縦に振った。自分が小杉の作品のモデルに、そんな突拍子も無い提案に対して異論を唱えることもしなかった。何故自分が、とその場で問うこともしなかった。  どうしてかと聞かれれば答えは簡単だった。吉崎の目の前の明度を一瞬にして変えてしまうこの男は、それ以外の選択肢は持っていないように見えたからだ。その狡さをあっさりと躱して、そんなことはしませんと首を横に振ったとしても彼は、次の手を打ってくるのは目に見えていた。太刀打ちできない。  だけれどそれ以前に、この男の持つ吉崎の持ち得ない世界にもう、自ら足を踏み入れてしまえと思ったのも事実だった。学生しかして来なかった自分に、何が出来るのか得られるのか、高揚した自分が居ることも否定出来ない。  その後は、普通の話しかしなかった。意外にも口元だけ柔く笑うこともある彼は、吉崎の口を一瞬だけ噤ませる。唾を飲み込むと同時に歯を食い縛ると、視覚が敏感になった。彼は眼鏡を掛けているからか、目元の表情が読み辛い。その事実に吉崎は、目を伏せた。伏せた先には、豪華な食事が未だに残っている。空になるまでまだ、随分と時間が掛かりそうだった。自分から一歩踏み出した先には、何が映るのだろう。目を上げた先の景色は変わるのか、もう一度小杉の方に視線を戻すと、彼は吉崎を見ていた。  何ですか? と問うた。いや何でも、彼はそう言って目を伏せた。まだ、何を話していいのか距離感は掴めなかった。  寮で生活していることと、門限が二十一時であることを告げた。そろそろ出るか、と言われた時には、皿の上は空になっていた。他愛ない会話しかすることはなく、食べ物と一緒に無くなってしまったようだった。支払いは小杉がした。今日は三百円以上持っていたようで、財布の中から学生の自分は持っていないような金額が出て来る。ぎょっとして、吉崎は思わず目を逸らした。外は既に真っ暗で、少ない街灯を手掛かりに歩いた。元々視力はいい方で、すぐに慣れた。ここに来た時に眺めた緑はすっかり、黒に染まっている。不意に手を伸ばすと、葉であることに変わりはなかった。今度は小杉が聞いた。何してんだ? と。吉崎はかぶりを振った。何でも、と言った。彼が車を置いているパーキングまで行くと、一瞬だけ潮の香りが鼻先を過ぎった。啜るように匂いを嗅ぐと、道路を挟んだ向こう側に海があることを今更のように知った。  海のある方向に目をやっていると、小杉もそこを見ている。その表情は、ぼんやりと霞んでいるのか或いは自分勝手な膜を吉崎が張っているのか、まだ見分けが付かなかった。彼は海が好きなのだろうか、とは単純に考えた。 「あの」 「何だ?」 「好きなんですか? 海」 「嫌いじゃねえよ。気分転換に海沿い散歩したりするしな」  ほれ、早く乗れ。小杉が続ける言葉に、吉崎はまた、助手席に乗った。おれはまだこの海には慣れません、吉崎は口の中でそう言った。さほど距離のない寮までの道程の中で、吉崎は自然と、あ、と声を出していた。暗がりの中で、上級生から借りたネイビーのシャツを見た。汚してねえよな? と上から覗くも、車内の暗闇の中では確認しようもなかった。 「どうした?」 「あー、いや。この服、借りたんです。先輩から」  汚してねーかなって。と続けると、また一瞬だけ小杉の視線を感じる。 「あ? それが?」 「風紀委員の委員長してる先輩なんですけど、怖い人かと思ったらそうでもなくて。意外だったな」  運転中の小杉を見ると、彼も一瞬だけ吉崎を見遣る。すぐに前を向いてしまったから、表情は伺えない。ただ、少しだけ興味を持たれたような気がしないでもなかった。彼より幾らも子供である自分の言葉に。 「番長みたいな奴か。面白えな、それ」 「は? ば、ばんちょう?」 「ネタになりそうだなーって話」 「そうですか?」 「そーそー」  やっぱり変わってる、自然と緩む声に吉崎は、自分自身が驚いていた。息を飲み、もう一度彼を見る。すると、暗がりでもよく分かった。この闇に目が慣れてしまったからだ。この人も少しは楽しいのかな、吉崎は単純にそう思った。  寮の近くで車を停めて貰った吉崎は、ようやく思い出した。また気付いたように、あ、と言うと、今度は何、と彼は多少呆れたように笑った。 「サイン忘れてた」 「あ?」  持っていたショルダーバッグの中から、田嶋に預かっていたハードカバーの単行本と油性ペンを取り出した。 「友達からあんたのサイン頼まれてて」 「あー、はいはい」  見えねえな、小杉はそう言うと、ハンドルから腕を伸ばした。マップランプに伸ばした手の行方を追うと、吉崎は思わず身を引いてしまう。何で、と自身に疑問を抱くものの、解決に至る前に彼が吉崎の手から本とペンを取ってしまった。空いてしまった行き場の無い自分の手は、思わずシャツを握る。 「名前何?」 「え、おれ? 言ったじゃん」 「はは、おめーじゃねーだろ。そのお友達」  吉崎はもう一度、強くシャツを握った。何も含まない、ただ目を細めて笑う小杉の表情が、オレンジのライトに照らされる。意外だった。歯並びいいんだ、と的外れなことを思った。 「田嶋……ってやつ」 「田嶋くんね」  小杉は目線を落とし、ハードカバーの表紙を開いた。油性ペンのキャップを外し、文字を書く。その流れを追うと、吉崎はコインランドリーで彼と初めて会った日を思い出した。不躾で不審な行動をしながら、手の動きだけで妙な説得力があったことを。書き綴られる動きが流暢で、思わず目を奪われた。今のように。 「田嶋くんへ。ありがとうございました。小杉遼太。へえ、丁寧だね」 「そりゃそうだろ。読者さんあっての我々」 「優しいんだ」 「なんだそりゃ」  かと思えば今度は、息を吐くように淡々と声を出す。吉崎は本を受け取った。最後、ご馳走さまでした、と言った。そこで気付いた。単純に彼の仕事を手伝うだけだ、と。また連絡する、小杉はそう言った。分かりましたお休みなさい、本をショルダーバッグに入れ、吉崎は頭を下げた。助手席のドアを開け、寮に向かう。  まだ玄関が照らされている寮に戻り、管理人の職員に帰宅したことを手短に告げ、足早に自室に入るとすぐに、田嶋に本を手渡した。サイン、と短く言うと彼は、凄い凄いと室内を動き回った。それを他所に吉崎は、風呂入る、と言ってカラーボックスから着替えを取り出す。頭の中が靄が掛かっているのか砂まみれなのかそれとも波の音が繰り返しているのか、一定の速度で同じ雑音と霧雨のようなカーテンが吉崎の頭の中を遮光する。俯くと、目の前を前髪が覆った。見え辛い、とただ思う。 「吉崎、ありがとう」  振り返ると、嬉々とした屈託の無い笑顔で田嶋は言った。吉崎はかぶりを振った。どうしよう、今噤んでいる口の中にある言葉はそれだった。とはいえ、放り投げられる筈もない。 「頼みごとってなんだった?」 「あー、何か、バイト。そんな感じ」 「そっか」  田嶋は何も聞かなかった。彼はいつもそうだ。吉崎の言葉が纏まらない時、外を眺めても海と街しか見えない時、ここに居る理由を模索している時、田嶋は何も聞かない。  ごめんおれにも分かんねえ、吉崎は着替えを持ち、浴室に向かう為に自室を出た。          翌週、初めて小杉のマンションに行った吉崎は、その広々とした室内に圧倒された。広いリビングとキッチン、壁に埋まった本棚、敷き詰められた数々の本、仕事用と思しきテーブルにはパソコンと本と積まれた紙。そのテーブルだけは全く整頓された様子が無く、余計に、彼の職業を感じさせる。猜疑心があった訳ではなく、この人は本当に作家なのだと突き付けられた。幾つなのかも知らないこの男は、吉崎に適当に座れと言った。雰囲気に飲まれたと悟られるのも釈然としなくて、平静を装う。  その時言われた「疑似恋愛」にぎょっとしつつ、頭の中に常に掛かっていた靄が、少しだけ晴れた気がしたのだ。雑音のように木霊していた波音も霧雨のカーテンも、一瞬だけぴたりと音が止む。高揚と胸騒ぎが、同時に押し寄せた。反面、恐怖もあった。この先自分がどう変わって行くのか、吉崎は小杉を見詰めるしか出来なかった。  それからの吉崎は、週二回だけ小杉のマンションに行くことになった。平日の授業が六限で終わる水曜日、休日の土曜日、その二日間。もっとも、小杉の仕事の都合で曜日が変更になることもあるけれど。吉崎は電車に乗り、最寄駅で降り、蒸している空気の中で小杉のマンションに向かった。夏休みが始まる前のこの土地は、よく雨が降る。降る前は蒸す。じわじわと湿度の高い空気が、吉崎の皮膚に纏わり付いた。  あつ、と口の中で呟いて首に触れると、そこはじわりと汗ばんでいる。耳にはヘッドホンを付けていた。またスマートフォンのアプリでランダムに曲を聴いていると、空気も周囲の音も遮断されていくようだった。今日は、随分前に発売された女性シンガーのアルバムだった。吉崎は彼女の、少しだけ掠れた彼女だけが放つ質量が好きだった。相変わらず、歌詞の意味はよく分からない。分からないけれど、何処と無く押し迫る鋭敏さを感じ、居た堪れなくなりアプリを停止した。ヘッドホンを外し、通学用のリュックにそれを突っ込んだ。今日は水曜日だった。
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