4-2

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 小杉が住むマンションは酷く立派な建物で、彼は九階の最上階に住んでいる。オートロックのインターホンを初めて押した時はどれだけ緊張したか分からない。それでも、二度目になればまだ和らいだ。部屋番号である九〇八を押すと少しして、はい、と聞こえた。小杉の声だった。吉崎です、と言うと、どうぞ、と彼はロックを解除した。つい一週間前までは開く筈のなかった、知ることさえなかったドアが、簡単に開いた。そこを通過しても、未だに蒸している。空気は変わらないのに、匂いが違う。すん、と一瞬だけ吸うと、青臭い香りは一切しない。無臭に近い。学校でも寮でもない、吉崎が触れることのなかった気配が、ここにはある。  エレベーターのボタンを押し、ドアが開くのを待った。しばらくすると開く。九を押すと、ドアは閉じた。  先週の土曜日、初めて来た時には会話をして終わった。疑似恋愛って何? と聞けども、俺も分かんねえから適当でいいや、と彼は言った。適当って? と聞くと、じゃあとりあえず敬語やめれや、と言われた。はあ、と返したら、違う、と彼は言った。口籠るように、うん、と言い直すと、何故だか頭を撫でられた。犬猫じゃねーよ、と悪態を吐くと、似たようなもんだ、と返された。  距離を詰めているのかいないのか分からないまま、二人でソファに座り、くだらない話を繰り返した。彼は言葉に詰まると、頭を掻く。ソファの背凭れに凭れ、頭を預け、頭を掻いた。癖なのかな、と吉崎は思った。この日はグレーのスウェットにTシャツというだらし無い格好をしていて、伸びる腕はやはり、作家業という割には無骨に見えた。首を反るように頭を預けているので、喉仏とエラが際立っていた。体の線が、学生である自分とは、全く違うように感じた。その喉仏に触れたい、一瞬だけ感じたことは誰にも、自分にさえ沈黙を通している。  だってそんなの、違うだろ。そのぎりぎりの否定だけが、今の自分と小杉の距離を保っていた。  九〇八の部屋に着き、吉崎はまたインターホンを押した。鍵空いてるぞ、と間延びした声がして、吉崎は制服のシャツを握り締めた。胸の辺りを掴むと、その辺りがぎゅっと騒つく。一歩踏み出し、玄関を開け、お邪魔します、と言うと奥から、上がれー、と声がする。スニーカーを脱ぎ、吉崎は玄関から小杉の部屋に入った。疑似恋愛、が脳裏を過ぎる。 「よう」 「どーも」 「ケーキ食うか? 少年」 「え?」  仕事をしていたのか彼は、仕事用の椅子に座っていた。立ち上がると軋むような音がする。随分古そうだと何気に思った。 「甘いもん苦手か?」 「いや、好き」 「俺を担当してる敏腕編集さんがね、今日お前が来るっつって話したら用意してった」 「敏腕編集さん?」 「そう、あの女は凄えぞ。デキる女っつーのはああいうのを言うんだな」  彼はキッチンにある冷蔵庫を開け、箱を取り出した。開けると色々な種類がある。ショートケーキ、チョコレートケーキ、チーズケーキ、モンブラン。どれにする? と聞かれたので、モンブラン、と答えた。すると、モンブランは俺が食うからお前は別にしろ、などと言うのだ。は? と一応反抗するものの覆る雰囲気ではなかったので、チョコレートケーキ、と渋々返答する。使ってなさそうなキッチンは、物がなかった。備え付けられているステンレスのキャビネットに、コーヒーカップやグラス、皿が数枚、申し訳程度に茶碗がある程度だ。 「物がねーな」 「使わねえもん」 「メシどうしてんの?」 「買うか出前。もしくは打ち合わせ」  小杉は吉崎に、ケーキは手で食うかと聞いた。フォークくらい使わせろよ、と語気を多少荒げると、彼は揶揄するように笑う。一応皿には入れてくれたようで、ソファへ持って行った。どーぞ、と言われたので座り、いただきます、と手を合わせた。 「寮は三食メシが出んのか?」 「うん。入来さんっていう管理栄養士さんが作ってる」  彼はそこで、ほー、と感心するように声を出した。そして、そりゃ大変だ、とモンブランに手を付ける。そっち食いたかった、と吉崎は思った。自分も同様に、フォークでチョコレートケーキを切る。一口入れると、苦味が程良く効いていて美味しい。美味い、と呟くように言うと、食わせ甲斐があるな、とまた彼はモンブランを食べた。一口ちょーだいって言っていい? また口の中だけで吉崎は言った。彼と過ごす短い時間の間、度々同じことを繰り返している。 「おめーらは何もしねえのか?」 「日曜日だけは当番制で作るよ。おれはおにぎり担当で、実家から送られた米で作ってんの。みんな美味いって食ってる」 「そりゃいいな」 「夏休みは帰省する前に寮生でバーベキューしたり。この間言ってた番長? あの人率先して焼いてくれて」  番長なんて言ってるって知れたら殺されるかも、吉崎は何気無く考え、一人苦笑する。 「最近の高校生は楽しんでんな」 「あんたの時はどうだった?」  吉崎が覗き込むようにして言うと小杉は、目を瞬きさせる。その真意が掴めず、吉崎は首を傾げた。 「高校行ってねえから分かんねーなあ」 「え?」 「なんだ、お前知らねえのか。お友達の田嶋くんに聞いてみな。そいつなら多分、理由知ってるぜ?」  どういう意味? 吉崎にはそれが聞けなかった。聞いていいものかも分からなかった。そういえば吉崎は、小杉の年齢が幾つなのかも知らない。好きな食べ物も知らない。知っていることと言えば、彼が作家で今この時間だけ疑似恋愛を頼まれているということだけだった。きっと彼は、聞けば答えるのだろう。冗談を交えつつ、それが本心であるかも上手く狡く隠して。  吉崎はまた、胸元のシャツを掴んだ。強く握ったせいか、衣擦れの音がする。ぎりぎりと掴むと歪んだ雑音になり、それは吉崎の耳に酷く残った。モンブランが好き、それを今日、初めて知った。  あーあ。気付いちまった。吉崎は目を伏せた。今シャツを握っている理由も、車の中で伸ばされた腕に目を取られて体を引いた理由も、突拍子も無いことを提案されても簡単に首を縦に振り、違う世界に身を乗り出した理由も全部。  元々早く結果が欲しい性分で、現代国語のように結局結論は何だったのか分からない分野は苦手だ。数式を解いて、一つの答えを導く方が余程得意だった。自分がこうして、分からないと嘆くことは酷く不得手だ。 「一口ちょーだい」 「あ?」 「モンブラン、好きだから」  吉崎は小杉を見詰めた。眼鏡を掛けている目元は、相変わらず真意が掴めない。不意に、雨が降ったあの日、紫陽花の向こう側に映るぼやけたこの男の後ろ姿を思い出した。上手く捉えられないその姿は、今も尚変わらない。吉崎の目に映るこの男は、どう転んでも霞んで見える。  海は嫌いじゃない、この男はそう言った。グレーの滲んだ海の色が、よく似合っているように思う。捉えられない。そんなことはよく知っている。  あ、と思った。距離が近い、と。小杉の顔がよく見える。銀縁の眼鏡と無精髭が近過ぎて、焦点が合わなくなる。何度瞬きしても、そのぼやけた表情は明確にはならない。 「そういや、お前未成年だっけ」 「……そう、です」 「はは、何で敬語だよ」  目を逸らす小杉を見て、吉崎は唾を飲み込んだ。元々、答えが出ない問題は苦手だった。 「あんたの言う疑似恋愛ってのはこの程度?」  小杉の指が吉崎の頬をなぞった。近付いては止まり、唇が触れる直前で止まる。 「まだ捕まりたくないんでね、黙っといて」  あーあ、気付いちまった。唇がそこに触れたと同時に、吉崎は目を閉じた。  コインランドリーで彼と出会い、紫陽花が咲いていることを初めて知った。いとも簡単に変わって行く景色を眺め、容易く世界を変えてしまうこの男が怖かった。誰も教えてくれなかった感情を、特定の誰かから教わることは一つの恐怖に近いように思う。  煙草吸ったのかな、唇に受ける柔い感触から感じる苦味も同時に味わい、その年の差を嫌というほど受けた。  好きなんだ、騒つく心臓が一番の恐怖だと吉崎は、今日初めて知った。    
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