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洗濯機の中を覗くと、衣類がぐるぐると回っている。
頭の中と同じだといつも思う。つまんねー毎日だと、ぐるぐると日常が巡る。同じ毎日、同じ生活、高校二年生、抑揚も何の変哲もない同じ日々。
学生寮の近くにあるコインランドリーは、いつも空いている。大通りに面している訳でもなく、人通りの疎らな商店街の中にそこはぽつりとあって、尚且つ多少の古臭さがあった。これだけ寮に近ければ寮生御用達である筈なのに、その場所を利用しているのは多分、分かる範囲では吉崎圭一、つまり自分自身しか居ない。他の連中は皆、寮内に設置されている共同の洗濯機を使っていた。本来ならそこを使えばいいのだけの話だった。わざわざ外へ出歩き、洗濯物をビニール袋に入れ、小銭を払い、洗濯機を回す必要などない。にもかかわらず吉崎は、毎週のようにコインランドリーに通っている。ついでに雨の日は乾燥機にかける。凡そ一時間の時間を吉崎は、音楽を聴きながら過ごす。
一人になりたい、という感情は特に持ち合わせていなかった。寮の生活に不満は無い。ルームメイトとの関係は良好、先輩後輩の上下関係も厳し過ぎない。基本的には楽な日常。それを目の当たりにする瞬間、酷く退屈になり吉崎はここに来たくなる。
今日は休日だ。土曜日の午後三時頃に吉崎は、コインランドリーに来ることが多い。今年の雨季は雨が多いように思う。この日も然り。もっとも今日のこれは、急に降り出したのだけれど。がらがらに空いたこの場所の、誰も座っていない椅子の中から吉崎は、いつも自分が腰を下ろす場所に座る。そして隣の椅子には、持って来ていた傘を立て掛けた。ヘッドホンを耳に当て、今日は邦楽を聴こうと決めた。日本人のバンドの曲だった。特に拘りはなく、スマートフォンに耳触りのいい曲を入れていて、それを一時間程度聴く。
窓際の古びた椅子に座り、大きな窓から外を見ていた。空気中にたくさんの細かい線が、上から下に降り注ぐ。急に降り出したのか、道行く人々は小走りだ。ご苦労さん、と口の中で呟き、吉崎は窓硝子に凭れた。流れて行く曲の歌詞はよく分からない。日本語であることに間違いはないのだけれど、歌詞の内容にまで心を預けることはしなかった。ただ、耳触りのいい曲に体を委ね、何となく小さく歌った。
自分の声は聞こえない。ぼそぼそと出した声は、ヘッドホンに遮られて聞こえない。すぐ空気の中に溶ける。外で降り続ける雨の音も、吉崎には聞こえはしなかった。
その時だった。珍しくコインランドリーの入り口が開いた。人影が見え、吉崎は目だけを動かした。銀縁の眼鏡を掛け無精髭を生やした男性で、ひょろっとしてどこか怠惰な空気を纏う男だった。頭を掻き、口を動かしている。想像するに雨宿りだ。その辺りの軒下にでも居ればいいのに、吉崎は彼から目を逸らした。ここで誰か、他人と遭遇することは稀なことだった。すぐに出て行くだろうけれど、急に居心地が悪くなる。聴いている音楽が直接耳を通過している筈なのに、全く集中出来ない。スマートフォンのアプリを一時停止して、吉崎はヘッドホンを外して首に掛けた。
つまらなくなってしまったから、未だに止まらない洗濯機を遠目に確認した後、吉崎は男を見た。裾が濡れてしまったのか、彼が履いているデニムは色が変わっている。何気無く様子を伺っていると、後ろポケットからスマートフォンを取り出した。何処かへ電話をするのか、それを耳に当てる。
俺です、雨凄えんだよ雨宿り中、ああーうん、はいはい、は? タクシー? 乗る金ねえでしょ、は? ねえよ、ああー、三百円くらい、な? ねえだろ? 煙草買ったら無くなっちまった、はは、は? ああー急ぎますよなるべくねー、はいはいじゃあ後で。
その声があまりにだらしなく聞こえ、吉崎は吹き出しそうになるのを堪えた。駄目な大人おれでも三百円以上持ってるよ、そんなことを考え、吉崎は寮に帰ったらこの話をルームメイトにしようと決める。口元を軽く押さえ、目を伏せて小さく笑った。それが聞こえたのか、視線を感じて目を上げる。すると駄目な大人認定された男も、吉崎を見ていた。妙にじっと顔を見据えられているのを感じ、吉崎は思わず体を引いた。笑ってんのバレた? と、少しだけ気後れする。その難しい空気が嫌で、自ら声を掛けた。
「あの」
「ん?」
「傘、使います? 待ち合わせなんじゃないですか?」
「ああー、うん。そうなんだけど」
どこか歯切れの悪そうな様子に、吉崎は軽く首を傾げた。
「お前さん、学生か?」
「はあ、まあそうですけど」
「高校生だな」
「は? だから何?」
なんだこのおっさん、吉崎は立ち上がり、隣の椅子に立て掛けていた傘を手に持った。明らかに怪しい。眼鏡に無精髭、待ち合わせらしいのに三百円しか持っていない、しかも理由が煙草を買ったから。タクシーにも乗れないし、しかもよくよく見ると足元はサンダル。怪し過ぎる。早くこの傘を渡し、一度コインランドリーから出るに限る。
あ、洗濯物。吉崎は洗濯機を男の向こう側に見た。未だに終わる気配は見せない。一旦退散。それに限る。ずりずりと足を動かし、この男に傘を押し付けて立ち去ってしまえばいい。男がこの場から居なくなった後、もう一度ここに来る。完璧だ、瞬時に計算した自分の鮮やかさには拍手したくなった。どうぞ、と傘を押し付けようとしたその時。男はデニムのポケットから小さな手帳のようなものとペンを取り出し、何かを書き出した。すらすらと手際良く見える仕草に何故だか目を取られ、少しの間眺めてしまった。不覚だ、と思ったのも束の間、ペンのノック部分を弾く音がする。洗濯機の回る音に紛れ、それは酷くか細い。彼は手帳の紙を千切り、吉崎に差し出した。
「学生さん、これどうぞ」
「は?」
「傘は借りる。明日返す。そんでこれは俺の連絡先。あからさまに怪しんでるから渡しとく」
「いやいや要りませんよ。傘は別に返して貰わなくていいです。つーか明らかに怪しいでしょ、財布に三百円しか入ってねーっていい大人が」
口から出ていた言葉に、吉崎自身が驚いていた。元々物怖じしない性分であったものの、今の言動は流石に拙かったように思う。やべ、と小さく言って、吉崎は口を噤んだ。だけれど、当の本人はまるで気にも止めない様子で、というよりも不敵に笑っている。
「最近の学生さんは手厳しいねえ。今日はね、たまたま持ってねえの。まあ、適当に礼でもさせてよ。傘はまじで助かるからさ。試しに非通知でもいいから後で掛けてみな」
ぎょっとした吉崎は、とりあえず渡された紙切れを見る。そこには男の名前と思しき文字と、数字の羅列が書かれてあった。
「小杉、遼太?」
「そーそー」
なんか見たことあるような、吉崎が言うと彼は、そっか? と目を伏せた。何故だか見覚えのある名前で、途端に不信感が薄れた。なんて単純、と自身に呆れたものの、この名前を見たのは一度や二度ではないように思う。ただ、どうしても思い出せない。
首を捻っていると彼は、傘借りるぜ、と吉崎が持っていた傘に触れた。目線を下げた時、意外にも無骨な手の甲をしていて拍子抜けする。ひょろ長い体躯にはあまり似つかわしくなくて、だけれど何故だかしっくりと来なくもない。
「じゃあまたな、ガキんちょ」
「は?」
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