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「俺も今からそのマンションに行く用事ができたんで。良かったら一緒に行きましょうか」
思いがけない申し出に一瞬茫然としてしまったが、男は俺の返答を待たず既に歩き出している。慌ててその後を追いながら、俺は頬を上気させて礼を言った。
「ありがとうございます、本当に助かります」
「ついでみたいなモンなんで」
素っ気ない返答だったが、半ば迷子を覚悟していただけに嬉しかった。男は七月の夜風に紫煙を漂わせながら、前だけを見て俺の横を歩いている。
「もしかして、ホストクラブの人ですか?」
「………」
「す、すみません。変なこと聞いて」
「……いつもスーツ着てる訳じゃないんで」
「そうなんですか……なるほど」
よく分かっていなかったが、理解力のない男だと思われたくなくてつい納得したふりをしてしまう。男は無表情のまま煙草を燻らせ、俺の方を見もしない。
何となく無言で歩き続けるのが気まずくて、俺はまた質問した。
「お兄さん、かっこいいですね。都会の人ってやっぱ違うな……」
「そんなかっこいいモンじゃないです」
「充分かっこいいですよ。俺、こういう場所は初めてだから。見る物全部が珍しくて、すごくかっこいいです」
男がちらりと俺を見て、言った。
「名前、何ていうんですか」
「え? あ……俺の名前、柳瀬 散宙っていいます。田舎から出て来たばかりで、すみません……めちゃくちゃ緊張してて」
男がつまらなそうに俺を見つめ、ややあってから唇の端を弛めた。笑われたのだと気付いて恥ずかしくなる。
風俗街を抜けて交差点の横断歩道を渡ると、赤茶色のレンガ造りっぽい建物が視界に飛び込んできた。壁には間違いなく、「都ノ町アクアレジデンス」とある。
「ここです。良かった、本当にありがとうございました」
この短い間だけで、俺は何度彼に頭を下げたことだろう。自分でも可笑しくなって笑いながら、俺はもう一度礼を言った。
その時だ。
「大河っ!」
突然エントランスから飛び出して来た長身の青年が、俺達の方へと駆け寄ってきた。黒いタンクトップにハーフパンツ姿で、よほど焦っているのだろう、走りながら上着を羽織るが全く袖に腕を通せないでいる。
「全然戻って来ないから頼まれて迎えに来たんですけど。何やってんすか、先輩」
「ごめん、寝てた。今起きて慌てて出て来たんだ。途中で寄り道もしたし。ほんと悪い、大河」
大河というのがここまで俺に付き添ってくれた彼の名前らしい。その大河から「先輩」と呼ばれた美青年は、彼に向かって拝むようなポーズを取っている。端整な顔立ちと柔らかそうな茶色い髪、月光を弾くような白い肌──。大河とはまた違った色気のある、まるで絵本に出てくる王子様みたいだった。
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