1/1
前へ
/4ページ
次へ

 朝飯の片づけを済ませ、鏡介を着替えさせてから戸川は自分の部屋に戻り、漫然と文机に向かっていた。今手掛けているのは、馴染みの新聞社に寄せる些末な記事である。東京のどこにどんな店ができたとか、先日の納涼の祭はどうだったとか、書いている戸川自身が興味を持てぬような内容ばかりだが、これでどうして需要がある。  戸川は作家の卵だった。少なくともそう自負していた。だからこれは片手間にやっている小遣い稼ぎだ。と。そう言い聞かせて何年になるだろう。「本業」にもう何日手をつけていないのか、数えようとして、やめた。筆を放り投げて、天井を仰ぐ。  いつまでこのボロ長屋でしがない新聞記事の手伝いをしていれば良いのだろうと考えると、目眩がする。最後に小説を雑誌に載せてもらったのは一年前だ。こんな田舎で終わる男じゃないと郷里を飛び出し、夢のために燃やすべき活力は、日々の暮らしをつなぐために摩耗するばかり。いつかはきっと。そんな風に実体のない夢想をする頻度も減ってきた。  文机の隅に重ねられた原稿用紙の束を手に取る。戊辰戦争で両目の光を失った上に、維新で特権を奪われた士族の生きる様を描いた人情小説――になるはずだ。もう何か月も中盤で頓挫したままになっている。  無論、鏡介を描いたものである。名も変えて、失ったのが腕ではなく目ということにしてはあるが、それでも知る人が読めば分かるだろうというくらいには寄せて書いている。  実際、荒井鏡介は絵になる。生まれや歳は知らないが、下級とはいえ武家の嫡男に生まれて、文武両道、質実剛健を心がけて育ち、ようやく江戸徳川の膝元に頭を垂れたと思ったら、幕府は瓦解、死なば諸共と言わんばかりの戊辰のさなかで腕を失い、戦争が終われば身分も、家も、誇りであった刀も奪われ、今は江戸の名残も多い下町の雑多長屋で、静かに独り生きている。  その生涯だけでも描くに事足りぬことはないというのに、あの見映えだ。まるでどこぞの芸者のように美しく女性的で、艶美という言葉がよく似合う。それでいて陰のある瞳や、寡黙極まりない態度など、華に添えられる陰影がたまらない。戊辰のときには成人だったというから二十歳の戸川よりはいくつも上なのだろうけど、戸川は彼の年齢を知らない。だけれど、いくつになっても彼は美しくい続けるのだろうという確信があった。  何をしても危なっかしい彼を見ていられなくて、自然と世話を焼くようになった。それが十割純粋な善意だったかと問われると、頷くことはできない。 「……明日。明日こそ続きを書こう」  自分に言い聞かせるようにつぶやいて、原稿用紙の束を文机の隅に戻す。そのとき、表の通りから怒号が響いた。 「いつまでもお高く見下してんじゃねえぞ、この士族くずれが!」  またか。戸川は草履をつっかけて表へ飛び出した。案の定、予想した通りの光景が広がっている。鏡介の部屋の戸前。肩をいからせた四十がらみの男。突き飛ばされたのだろう、その前で地面に尻をついている鏡介の姿がある。男は醜面を真っ赤にすると、涼しく見上げてくる鏡介に罵倒を浴びせかける。 「来週といったら来週だ! どうせ溜め込んでやがんだろ、えっ。ほんとお侍さまってのは義理も情もねえな」 「っおい、あんた」  たまらず戸川は割って入った。座り込んだままの鏡介の前に立ち、長身で男を見下ろして威圧する。 「借りたもんくらい返したらどうなんだ」 「な、なんだいあんたァ」 「金。借りたんだろう」 「返す、返すさ、来週までにはな」 「あ、おいっ」  言うが早いか、男は身を翻し、制止しようとした戸川の手をすり抜けて、通りの雑踏の中へ駆けていく。 「けっ女郎みてえなナリしやがって。ソッチ使ったほうが稼げるんじゃないか」  そんな下卑た捨て台詞が春先の乾いた風に乗ってくる。チ、と舌打ちし、戸川は鏡介を振り返った。突き飛ばされ、ひどく辱められる罵声を浴びたというのに、表情ひとつかえずぼうっとしている。その目がどこも見てはいないような気がして、戸川は肝の底が冷えるのを感じた。 「大丈夫ですか、鏡介さん」 「……ああ」  左腕一本でどうにか起き上がろうとするのを、背中に腕を回して支えてやる。ふらりと起き上がったとき大きくよろけたので、慌てて胸で受け止めた。もたれてくる重みが成人男性にしては随分軽くて、くらりとする。そんな倒錯は一瞬で振り払って、力を込めて鏡介の体を支えた。彼は左足も不自由なのだ。 「もうほんと……いつ危ない目に遭うか、気が気じゃありませんよ。やっぱり金貸しなんて、鏡介さんには向いてないですって」  鏡介は政府から支給される、秩禄という手当を元手にして町民に金を貸し、その利子で生活している。だが大人しい性格と身体の不具ゆえに、先程のように強引に支払いを延長されたり、最悪踏み倒されることも少なくはない。だというのに、それがどうしたと言わんばかりに動じない鏡介を見ていると不安になる。この人はいつか、自分が殺されそうになっても一切の抵抗をしないのではないか、とすら。 「いいんだ。別に。おれひとりが食うのに困らないくらい返してくれれば、それで」 「……っ、僕には、分かりませんっ」  思わず、背を支える手に力がこもる。まるで胸に引き寄せるような形になってしまったのを、鏡介は一本しかない腕でやんわりと押し返した。 「済まない。騒がせたな。いつもありがとう」  そんな風に言われてしまっては、引き下がるより他ない。戸川は乱れた鏡介の着流しを整えると、部屋に戻るのを見送った。ず、ず、と左足を引きずる後ろ姿が痛々しい。自分の胸を押し返してきた、細いけれど弱々しくはない腕の感触がいつまでもわだかまり、ずくりと疼いた気さえがした。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加