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 その日も戸川は鏡介に朝飯を運び、着替えを手伝い、終日出掛けないという彼のために昼食を作り置きし、また夜に来ると言って出掛けた。出来上がった記事を新聞社に届け、しばらくは生活できる程度の報酬を受け取り、市をぶらつき、食材やら雑多な日用品やらを両手に提げて家に戻るときには、陽が暮れかけていた。  夕飯の支度をせねばならない。洋襟の上から羽織った着物の袖を襷で縛っていると、隣からバタリと大きな物音がした。鏡介が転びでもしたのだろうかと、耳を澄ます。だが次に戸川の耳に飛び込んできたのは、鏡介のものではない話声だった。 「なあ、ええやろ。一遍だけや。期日も過ぎらん、利子も上乗せしちゃるて上客の頼みやぞ」  含みのある言葉のあと、畳を叩くような強い音、それから鏡介が何か言ったらしいのが聞こえてくる。戸川は服の上から胸を抑えた。まさか、と思うが確証が足りない。彼の仕事の妨げになったら――そう思うと踏み込むには足りない。壁に貼り付くようにして、より鮮明に隣の音を拾う。今度は鏡介の声が、くぐもりながらも何とか拾えた。 「離せ。その薄汚い手をどけろ」 「おー怖っ。本性はそんな風に話すんやなあ。でもはなせ言われてはなすくらいの、そんな半端な覚悟で襲ってないんよ」  確定だ。戸川は部屋を飛び出した。 「鏡介さん!」  草履をつっかける時間も惜しかった。裸足のまま、隣の部屋へ押しかける。やはり、だ。上等な着物に身を包んだ若い男が、着流しを乱した鏡介を組み敷いている。一本しかない左腕を抑えられ、唯一自由になる右脚を膝で割り開かれている。あれでは抵抗できなかろう。鏡介の体のことを分かった上での卑劣な所業に、カ、と目の奥が熱くなる。 「誰だ……鏡介さんから離れろ!」 「おっとぉ。これは無粋な邪魔が入ったなぁ」  男は呆気ないほどの諦めのよさで、鏡介の上から身を引く。長く伸ばした髪をうなじで括っているような軟派男だが、やたら二枚目であるところや、人を嘲るような笑みをたたえた口許に訳の分からぬ苛立ちを覚える。 「しゃあないな。今日のところはおいとましましょ」 「おい、ふざけ……」  なおも詰め寄ろうとして、思いとどまる。男がよいしょと直した袷の裾から、彫り物が見えた。堅気ではない。やくざ者だ。ヒヤリと腹の底が冷える。 「ま。俺ん情夫(イロ)なるて話、真剣に考えときや。悪い話やないやろ。あんたみたいな上玉、いつまでもこんなボロ長屋でしょぼくれてることあらへん。いつでもおいで」  嘯いて、仰向けに横たわったままの鏡介の太腿をさらりと撫で上げる。そうして何もなかったかのように戸川の横を通り過ぎ、部屋を出ていった。  後に残された戸川はしばらく動くことができなかった。戸川が駆け込まなければ鏡介があの男に慰み者にされていたという事実。自分とは違う世界――極道に生きるものに初めて触れた恐怖。そして何より情事に及ぶ気配の中で見てしまった鏡介のあられもない姿に、正常な心が取り戻せない。  その間に、鏡介は片腕一本でどうにか上体を起こし、乱れた裾を直して、ふう、なんて溜息をついている。その目が何も感じていないいつもの目で、戸川の頭に血が昇った。 「……なんでですか」 「何がだ」  帯を締めなおしている鏡介は、戸川を見もしない。片手ではうまくいかぬだろうに、どうにか直せないかと引っ張ったり持ち上げたりしている。すぐに手を貸してやるべきなのに、戸川の頭は違うことを考えている。知らず、息が荒くなった。 「なんで助けを求めないんですか。大きい声を上げれば隣の僕に聞こえるのに」 「おれひとりでもどうにかなったからだ」 「どうにか? なってなかったじゃないですか! あのままじゃあの男にやられていた! その体で何を言っているんですか?」  思わず語気が荒くなる。鏡介は諦め悪く帯をいじっていた手を止めて、はじめて顔を上げて戸川を見た。黒黒とした瞳は、こちらを向いているのに全く自分を見ている気がしない、と、戸川は思った。 「ではきみがあの男をどうにかできたとでも?」  ぐ、と詰まる。たまたま向こうが大人しく引いてくれたものの、やくざ者が本気で凄んできたら戸川などひとたまりもない。恐らく相手は獲物も持っていただろう。今更ながらに背筋が寒い。 「……じゃあ、僕がこなければ黙ってあの男にやられていたんですか」 「さあ」 「さあって! どうしてもっと自分を大切にしないんですか!」 「どこまでも落ちぶれていく身。どうなっても構いはしない」 「っなんで……!」  戸川はいきり立って部屋へ上がり込んだ。土のついた裸足の裏が畳を汚す。そして今しがた起き上がったばかりの鏡介の肩を掴んで再び仰向けに倒し、上から圧し掛かった。 「僕は鏡介さんが大切です、僕にはあなたが必要です!」 「おれに、きみが、ではなく」  先程あの男に組み敷かれたときも、こんな顔をしていたのだろうか。自分よりはるかに体格の良い男に覆いかぶさられているというのに、鏡介は微塵も動じなかった。いつもの涼しい瞳で、しらっと戸川を見上げている。戸川はこんなに息を乱している己が急激に滑稽に思えてきた。だがここで引き下がるわけにもいかぬ。 「っ、ええ!」  濃紺の着流しの襟を割り開く。穢れを知らぬ白い胸が眩しくて目眩がする。くらくらした頭のまま、その胸に顔を埋めた。鏡介の生の肌の匂いを大きく吸い込み、滑らかな感触を味わい、胸と胸の間の窪みを舌でなぞる。 「焦がれているんです、こんなにも」  肩に置いた両手を滑らせて、するすると着流しを脱がせていく。皮膚が引き攣り不自然に丸まった右肩は何度見てもどきりとする。だがその醜い腕すらも、彼の一部ならば。 「好きなんです、あなたに焦がれています。あなたが欲しくてたまらない……っ」  衝動のままに口を吸う。薄く乾いた鏡介の唇は閉じることも開くこともなくただただ横たわっている。それを無理矢理舌で暴いた。何もかも自分のものにしてしまいたかった。  戸川の右手が鏡介の帯にかかったとき、ガリ、という悲痛な音と、言い知れない痛みが口内に広がる。たまらず悲鳴を上げて身を起こした。 「いっ……!」  口元を抑えた戸川の指の間から、ぽたりとひとしずく、紅が滴る。呆然とする戸川を、鏡介の黒々とした瞳が何の色もなく見据えてくる。その鏡介の唇もまた、ひとしずくの紅に濡れていた。 「帰ってくれ」 「で、でも……」 「これ以上、見損なわせないでくれないか」  声が尖っている。居た堪れず、戸川は逃げ去るように鏡介の部屋を辞した。  あんなに気安く毎日通っていた隣人がこんなにも遠い。自分が世話しなくては彼は夕飯をどうするのだろうとふと考えたが、今宵その戸口を叩く気にはなれなかった。
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