12人が本棚に入れています
本棚に追加
四
常ならば深い夢を見ている頃だというのに目が覚めてしまったのは、眠りが浅かったゆえだろうか。煎餅布団の上で目を開けた戸川は、壁の向こうで押し殺した話声がすることに気が付いた。
部屋は寸分の明かりもない闇に沈んでいる。このような夜半に、隣に客があるらしい。嫌な予感がする。壁際に寄って耳を澄ました。
話声は男のものだ。鏡介でない誰かが一方的に話しているようである。鏡介は黙っているのか、それとも何か声を発することを妨げられているのかもしれない。合間に衣擦れの音。徐々に声は大きくなり、やがてわずかに言葉が聞き取れる程度になった。
「抵抗は終わり? お武家さん言うても刀がなけりゃ大したことないんやねえ」
あの声、西の訛りの濃い喋り方。間違いない、昼間の男だ。懲りずに夜這いにきたか。今すぐ隣に駆け込んで鏡介を助けたいのに、何かが戸川の足を縛り付けて動けなくする。壁についた手ばかりがぶるぶると震えた。
「なんや……アンタも濡れてるやないの。なあ白状したらどうなん。ほんまはコッチ、使ったことあるんやろ……?」
ひどい言葉で鏡介が辱められている。今隣で起こっていることを想像すると怒りで悪心すら沸き起こってくる。だというのに、なぜこの足は動かない、戸川は強く唇を噛んだ。
そのとき、不意に話声がくぐもる。そして。
「ぅぐ、ぐうううっ!」
押し殺した苦悶と、バタリと何かが倒れる音。
怒りに激しく血潮を巡らせていた体が、一気に冷えていく。今の呻きは鏡介のものだろうか? それとも――。
「っ、鏡介さん!」
怖じ気はどこかに吹き飛んだ。何か異常な事態が起こっている。草履をつっかけて部屋を飛び出し、満月に煌々と照らされる町には目もくれず、隣家の戸に手をかける。男が押し入った名残か、鍵は開いていた。
嫌というほど親しんだ六畳一間は惨状と化していた。
片腕を失い、片脚を引きずり、それでも鏡介は真っすぐに凛と立っていた。帯はほどかれ、かろうじて肩に引っかかった着流しは完全に前が寛げられていて羽織っているだけの痴態だったが、それでも微塵も彼の清廉さが傷つけられることはない。ただただその後ろ姿は凛々しく美しかった。部屋の戸が開け放たれたことにより差し込んだ月明りが、彼の左手にある白銀をより冴え冴えと輝かせる。白銀の先端は、何か黒い――少なくとも戸川の目には、闇の中で黒く見えた――黒いものがどろりとまとわりついている。
その正体は、探らずとも知れた。
戸川の足許。派手な格子柄の着物を着た男が転がっていた。仰向けに倒れ、のけぞった顔がこちらを向いている。目を剥き、口をだらしなく開き、喉から迸った黒いもので顔も体も、周囲の畳もびっとりと汚れている。明らかに、絶命していた。
鏡介が殺したのだ。その手に握られた、脇差で。
「……きみか。いいところに」
振り向くことのないまま、鏡介が言う。その声が平素とあまりに変わらないので。かえってうすら寒い。もはや戸川は震え出す膝を叱咤することすら難しかった。
廃刀令で士族は刀を奪われた。鏡介はその脇差をどこに隠し持っていたのだろう。死した男の体の脇、畳が一枚返されている。鏡介は片腕一本であれを返したというのだろうか?
「これを運ぶのを手伝ってくれないか」
「……ぼ、僕、は……」
絞り出した声は、自分でも笑えるほどに震え、上擦っていた。だがもはや取り繕うことすらできぬ。
そんな戸川を、鏡介はわずかに振り返って笑った。それはこの長屋で隣人となってから戸川が見るはじめての笑みだった。だがしかし、慈愛の笑みではない。それは明確に冷徹な、嘲笑だった。
「これがおれの生きる世界だ。きみは、おれの何を分かったつもりでいたのかな」
戸川はその場を駆けだした。振り返らず、どこへでもなく、とにかく遠くへ遠くへと、夜の街を駆けた。とにかく足を動かしていないと、間際に聞いた鏡介の「きみが手伝ってくれないなら埋めることはできないな、川にでも捨てるか」というあくまで淡々とした声が、すぐ真後ろに迫っている気がした。
全くどうして、鏡介の言う通りだ。一体あの男の何を分かったつもりでいたのだろう。
落ちぶれと蔑まれ、腕のない袖を翻し脚を引きずる体を嗤われても鏡介が平然としていたのは、本当に何も感じていなかったからだ。彼の矜持は何一つ傷ついてはいなかった。彼は腕を失い脚の自由を失い、刀も家も家族も奪われ、それでもずっと「侍」だった。身体はどこまでも落ちぶれても構わないと言いながら、魂が穢されるのを許さなかった。戸川ら平民が些事で一喜一憂し、穿った目で鏡介を憐れみ、時に蔑むのを、いつも一線を画したところで眺めていた。
そんな彼の何を分かったつもりでいたのだろう。あまつさえ、彼は自分がいないと何もできないのでは――なんて。そんなおこがましい錯覚さえしていたのは、なんという恥か。
「ぅ……えっ」
川沿いに植えられた松の根本で嘔吐する。今更ながらに、あの部屋に立ち込めた鉄錆の匂いが肺に溜まっているように思えて、不快で仕方なかった。
もうあの部屋には戻れない。戻れるはずもない。
朝になったら一番列車に乗り込み、田舎に帰ろう。農村でも小説は書ける。忌まわしい血の夜の記憶と、美しく凛々しい男への思慕は背後に捨てていくことにした。
最初のコメントを投稿しよう!