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 田舎で田畑を耕していた頃の癖で、つい早起きをしてしまう。日の出からさして時間も経っていない頃に目覚めた戸川(とがわ)は、汲み置きの井戸水で顔を洗い、布団をあげ、着流しを脱いで洋襟に袖を通し、勝手に向かう。昨晩から水に浸しておいた米を土鍋に移し、火を起こす。ふつふつという泡の音を確かめて火を弱くし、その間に味噌汁を用意する。具が青菜しかないが仕方ない。土鍋を火から降ろして蒸し、十分炊けたところで熱いうちにおにぎりをこしらえた。大きな男の手で握られたそれは、完全な三角にはならず、どこか歪だ。  自分用のふたつと、あの男用にふたつ。具のない塩にぎりが四つ出来上がったところで、戸を一枚隔てただけの表通りに人の賑わいを聞いた。壁の薄い長屋である。その賑わいを受けた隣室の住人が起き出した物音を聞きつけ、おにぎりの盆に布巾をかけて、部屋を出る。 「鏡介(きょうすけ)さん、お早うございます」  隣の屋を訪ねると、案の定、布団の上でぼうっとしている鏡介を認めた。うなじを覆うほどには長い艶やかな黒髪は好き勝手に跳ね、張り詰めた琵琶の弦のように筋の通った切れ長の瞳は、今はしょぼしょぼと垂れている。 「鏡介さーん! 朝ですよ!」 「……毎朝毎朝、きみも飽きないな」  背の高い女性にも見えぬこともない繊細な外見とは裏腹に、絞り出されたそれは低く張った男の声である。そう分かっているのに、袷から覗く胸板の白さや、右目の下でぽつりと小さく主張をする黒子などがやけになまめかしくて、毎朝どきりとしてしまう。 「ほら顔洗ってきて。朝ごはん作ってきましたから食べましょう」 「ん……」  不自然に体をよじりながら布団を出、危なっかしい足取りで勝手へ向かう。ずり、ずり、と足を引きずる音も聞き慣れた。その間に戸川は鏡介の布団を上げ、ふたり分の箱膳を据えて茶碗と汁椀を取り出すと、すっかり平たくなった座布団を二枚敷く。持ってきたおにぎりを置いたあと汁椀を持って一度自らの部屋に戻り、味噌汁を両手にやって来れば、鏡介は既に座布団の上に座っていた。その首やら胸元やらがびしょびしょに濡れているのにも慣れた。首からかけていた手拭いで拭いてやって、自らも斜向かいに腰を下ろす。 「はい、いただきます」 「頂きます」  合掌のできぬ鏡介は小さくぺこりと会釈して、左手で不器用におにぎりを持ち上げる。それをぼろりとこぼしはしないかはらはらと見守りながら、戸川も己のおにぎりを口に運んだ。 「鏡介さん今日お昼は?」 「外に出るから要らない」 「大丈夫? ひとりで」 「ああ。心配いらない、……あ」  心配いらないと言ったそばから、ぼろりとおにぎりが崩れる。戸川は咄嗟に手を伸ばして、膝に落ちる前に受け止めた。そのまま鏡介の口許に持っていけば、ん、と小さな口を開いて直接食べた。一秒にも満たない刹那触れてきた唇が生温くて、変な気を起こしそうになるのを必死に抑えた。  鏡介は多くを語らない。切れ長の目は、しかしいつも伏しがちで情を面に載せることはなく、何を考えているのか分からない。何かと危なっかしいところのあるこの隣人の世話を焼くようになって半年経つが、戸川はいまだに、鏡介が笑ったところも困ったところも激昂したところも見たことがなかった。 「……きみの飯はしょっぱいな」 「そうですか?」 「ああ。早死にするぞ」 「母親の作る味がこのくらいだったからですからねえ。ま、気をつけます」  農作業をこなすにはこのくらい塩をとらないと力が湧かない。それゆえ味が濃くなる。そのことにはすぐ気づいていた。それにすっかりなじんでいた自分にも。だけれど戸川は曖昧に笑ってごまかした。田舎を忌み嫌ってこの東京の下町へ飛び込んだはずなのに、自分の舌には未だ田舎がこびりついている。吐き気がした。顔を隠すように味噌汁をすすりながら、碗と指の隙間から鏡介を覗き見る。利き手ではない左手で危なっかしく碗を持つ様は、しかし、粗野ではない。座り方もぴんと背筋を伸ばし、ひとつひとつの所作に切れがある。彼を見ていると育ちの違いを実感せざるを得ない。  だが今はともにこのぼろ長屋の隣同士に暮らす仲だ。四民は平等になったのだ。かつて鏡介が特権階級に属する存在だったことを示す名残が、彼の体にまざまざと刻まれていても、だ。  今は名ばかりの士族として僅かな秩禄で暮らす荒井鏡介は、その右腕を戊辰の戦火の中に置いてきたのだ。
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