本屋さん

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本屋さん

6月28日、目が覚めると猿がいた。 私の視線の真ん前、寝ている布団のすぐ横にちょこんと腰を下ろし腹のあたりを掻きながらすまし顔で私をじっと見ている。 なにがあれだかわからないまま、5%ほどしか起きていない意識で時間を確認すると五時半くらいだった。外はもう日が昇っているようで明るい。 猿の身体はそれほど大きくなくってボサボサな体毛は刈り取ったかのようにところどころハゲていた。 顔のパーツは真ん中に寄り気味で、猿にしては鼻の下があまり伸びていないように思えた。 横になったままぼんやり彼を見返していると(彼、の股間には立派なモノがついている)彼は私の肩に手をかけ軽く揺すると本屋に行こうと言い出した。 言い出した、といってもキィキィ鳴いているだけなんだけど、私には彼の言っていることが理解できた。 「あのね、本屋に行きたいのはわかったけれど、それより前に言うことはないのかな?まずここは私の家で、しかも寝室だ。見ず知らずの猿が無断で入っていいわけじゃあないんだよ。それにこんな朝早く、今日は仕事が休みでゆっくり寝ていたかったし…」 私がそう言うと猿はしばし沈黙した。寝室のどこかに焦点を合わせるでもなく、舞うハウスダストの中に一篇の詩を求めるかのように。 3分ほどだろうか、無音ができあがる寸前に彼はゆっくり立ち上がると壁に手をついた。 背筋はしっかり伸びている。 キィッ、と、ちぃさく申し訳程度に鳴いた。 反省。 彼は彼なりのやり方で気持ちを表したのだな、と思ったのでこれ以上とやかく言うのはやめることにした。 すっかり気持ちがうなだれてしまったふうの彼の背中を二度、三度、優しく叩いてあげた後に本屋さんはまだ開店していない旨を伝えると憂鬱に拍車がかってしまったらしく赤焼けたほっぺが、乾燥させて煮出したのち搾ったテングサみたいに色味を失っていった。 ぴんと伸びた背筋も目に見えて内向きになった。 私も少しばかり居心地が悪くなった。私には一片の落ち度もないのだけど、彼の落ち込みようを見ると私に全責任があるようにも感じた。 時計を見るといつの間にか6時を回っていた。 いつまでもこうしていても仕方がないので、いつもより早い朝食を食べることにした。 いじけて動こうとしない猿を騙し騙し慰めると連れだって1階に繋がる階段を降りた。うちの階段はいくらか段差が高いので、猿は一段、一段、飛び降りるように下っていった。 猿を茶の間に案内すると私は台所へ行った。 猿は、お構いなく、と言っていたが私だけ食事をするというわけにもいかない。 ひとり暮らしの私の冷蔵庫の中には瓶ビール3本と缶チューハイ2本、キムチ、イカの塩辛、納豆、小さめのトマトが二個、半切りのキャベツ、しわしわになったナスが3本、マヨネーズやポン酢といった数種類の調味料があるだけで(ほぼ晩酌の際のおつまみだ)お客をもてなすにはあまりに食材に乏しく質素だった。 私はとりあえず二人分のご飯を茶碗によそった。猿の分はいくらか少なめに盛った。キャベツをちぎって大皿に盛り、トマトは半切りにして横に添えた。 キムチと納豆と塩辛は小皿に取り分けた。猿に必要あるかわからないけどスプーンとフォーク、一応、箸もつけた。なんとなく酒も飲みたくなったので瓶ビールと、グラスも2つ持って行くことにした。 茶の間に戻ると猿がちゃぶ台のふちに座っていた。それは椅子じゃないよと伝えると、わかっていますよ、と返してきた。高さがちょうど良いのです、とも言ってきた。 なるほど、これがサルノコシカケかと思った。 配膳を終えると猿は、これはこれはご馳走ですね、と舌なめずりをした。 猿は朝食を器用に楽しんだ。箸使いは人間顔負けで掴みづらいであろう塩辛も難なく口に運んでいた。 キャベツにはコショウをかけて食べていた。氷水でしめてから食べると甘みが際立ちますよ、とウンチクなんかも飛び出した。 ビールには最後まで一切手をつけなかった。 ご迷惑ついでにお酒までいただいたら申し訳ない、ということだった。 気にしないで1杯だけでも、と勧めたが断固固辞された。 食事を終えると猿は帰って行った。深々と、猿特有の腰から折れるお辞儀が別れの挨拶だった。 どこに帰って行ったのだろうか。なぜ私のところに来たのか、本屋へ行きたかった理由さえもわからずじまいだった。 7月4日、自宅に小包が届いた。中身を開けると梶井基次郎の「檸檬」の文庫本が入っていた。  差出人の欄には「西のお山の猿」と書いてあった。 檸檬はすでにもっているんだけど最後まで読んだことがないので読んでみようかなと思った。            
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