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鈴木一郎@パブリックドメイン
「知ってます? 鈴木一郎ってパブリックドメインなんですよ」
これで今日三回目だ。
まったく、この男は同じことを何度も何度も私に言って来る。
仕方なしに私は相槌を打つと、この男、鈴木一郎@パブリックドメインの入れた昆布茶を啜った。
それにしても鈴木一郎@パブリックドメインとは、何ともふざけた名前だ。
昆布茶の風味が喉の奥に染み渡って行くのを感じながら、私は今更ながらそんな事に思いを巡らせていた。
しかしそれも束の間の話。
私はもう一口ほど昆布茶を啜ると、再び目の前の仕事に集中し始めた。
正直に言ってしまえば、この男の事が気にならないわけではない。
しかしそれ以上にこの男とは出来るだけ関わりたくない、いや、関わってはいけない。
それが昨日初めてこの男に会った時の私の第一印象だった。
「知ってます? 鈴木一郎ってパブリックドメインなんですよ」
しかしそんな私の気持ちを逆なでするかのように、この男は再び同じ台詞を吐いた。
これで今日四度目だ。
流石にうんざりした気持ちを隠しきれなくなった私は、昆布茶でのどを潤し大きく溜息を吐くと、目の前で得意げな顔をしながら佇む男に対して、面と向かって大きく口を開いた。
「で? 具体的に、鈴木一郎のどこがパブリックドメインなんですか?」
そもそも鈴木一郎@パブリックドメインがこの男の本名かどうかすら今の私には分からない。
ついでに言えば、この男の言ってる事のどこまでが本当でどこまでが嘘なのかも私にはさっぱり分からない。
だから私がこの男に対して出来る事と言えば、あからさまに嫌みったらしく質問をぶつける事ぐらいだった。
「それは知らない方がいい、山崎さん。何故なら僕は知り過ぎてしまったが故に、こんな最果ての地で、ひっそり生きてゆかねばならない羽目に陥ったのですから」
まったくこれだよ!
聞いた自分が馬鹿だった事を思い知りながら、私は目の前の昆布茶の入った湯飲みを手に取ると、そうしたところでそれが美味くなる事などないと分かりきっているはずなのに、ずずっと音を立てて啜った。
私、山崎拓也は現在、仕事の関係でとある集落に来ていた。
最寄の駅から一日に数本しか出ていないバスに一時間揺られて漸く辿り着ける、過疎化が非常に進行した山奥の集落である。
ほぼ限界集落と言って差し支えない。
そして私の仕事、それは特異点の調査だった。
「しかし政府も相変わらず暇ですね。ここの特異点を未だに調べようとしてるんですから」
いや、暇じゃなくても調べようとするだろ。
何しろ特異点なんだから。
もし私がこの男に出会う前だったら、そう思った事だろう。
この集落に散在する民家の間を縫うように通る一本道から枝分かれした、途中までは舗装されている細い一本道の突き当りに、目指す特異点は存在する。
少なくとも国家機密の地図の上では。
そしてこの場所まで辿り着いた私は、国家機密というものが所詮は机上の空論でしかない事を思い知らされた。
そこには国家機密にさえ存在しない物が、特異点への行く手を阻むように堂々と建っていたからだ。
鈴木一郎@パブリックドメインの経営する古書店が。
そもそも何でこんな所に古書店が?
この場所に辿り着いた途端、誰しもその疑問が浮かぶはずだ。
しかし今にして思えば、そう疑問に思ってしまったのがいけなかったのかも知れない。
それ以降、この男、鈴木一郎@パブリックドメインのペースに巻き込まれっぱなしだったからだ。
きっとそれこそが、この男の思うつぼだったに違いない。
私は溜息を吐くと、湯飲み茶碗に残った昆布茶を飲み干し、この三十代半ば程の青年の顔をまじまじと見つめた。
「普通、特異点というのは、事象の地平線の向こう側にしか存在しないらしいんですよ。ところがここには、そんな事情もお構いなしに現れちゃったみたいで。いやあ、大自然の神秘なんてものは、いちいち人様の事情に構ってくれないという、いい見本ですよね」
目の前の男、鈴木一郎@パブリックドメインが、頼んでもいない解説をしてくれた。
さも大自然の込み入った事情の代弁者であるかのように。
特異点の周囲は特殊な柵で囲まれ立ち入り禁止になっている。
そう、特異点は柵で完全に囲まれていた。
国家機密の地図の上では、だが。
そして国家機密のあずかり知らぬところでは、この柵は途中で途切れている。
鈴木一郎@パブリックドメインの古書店の両脇で。
つまりこの男の住居兼店舗は、一部が立ち入り禁止の柵の内側に存在しているのだ。
「言っちゃ何ですけどね、山崎さん。僕の家の方が先に建ってたんですよ。ここに特異点が現れる前から。まあ、登記はしてなかったんですけど。だから柵の工事の為に僕を立退かせようとした業者の連中に言ってやったんですよ。僕の家が建ったままの方が、柵の材料を節約出来るって。ほら、ここの柵って特異点を取り囲むような代物だから、特注品のかなり高価な材料を使ってるんですよ。だから材料代節約出来れば、かなりウハウハなんですよ、工事業者の人達も。まっ、言ってみれば三方一両損ってやつですかね」
三方一両損の用法が間違っているような気がしたが、指摘しないでおいた。
すれば話が更にややこしくなるだけだったからだ。
私の知る限り――と言っても、昨日初めてお目にかかったわけだが――この男はいつも暇そうだった。
この二日間この古書店に入り浸りだった私だが、私以外の客を見た事は一度も無かった。
私は仕事の手を休め、鈴木一郎@パブリックドメインが再び注いでくれた昆布茶を啜ると、この店の経営がどうやって成り立っているのかについて、しばし思いを巡らせた。
この、一週間飲み放題三千円ポッキリの昆布茶だけで、この店の経営が成り立つとはとても思えなかったからだ。
私の知る限り、ここは世界でもっとも特異点に近い古書店だった。
そして私の知る限り、ここの特異点がこの世の唯一の特異点だった。
その所為だろう、この店には特異点調査に関連した書物が所狭しと並んでいる。
そして私は今、それらの資料を調べている最中だった。
私がここへ来た当初の目的。
それは特異点の調査だった。
特異点の現地調査。
私のような無名で金のない研究者にとって、それは夢のような話だった。
確かに振り返ってみれば、多少胡散臭い気がしないでもなかった。
何故もっと有名な研究者ではなく、私のような研究者にそんな依頼が来るのか、不審に思わないでもなかった。
しかしその時の私は、そんな本能が発する警告を、研究者としての野心で強引にねじ伏せてしまった。
きっと私の過去の業績が政府中枢で高く再評価されたのだと、強引に自分に言い聞かせてしまった。
私の依頼者は幾ばくかの国家機密と調査の為の資金を私に提供した。
一部とは言え、国家機密にすら触れる事が出来る。
これは私の研究者としてのプライドを大いにくすぐった。
私は選ばれた研究者なのだと。
すぐさま旅支度を始めた私は、電車とバスを乗り継ぎ、意気揚々とここまでやって来たのだった。
こんな所に古書店がある事も、ましてや鈴木一郎@パブリックドメインに出会うなどとも想像だにせずに。
そして私は知った。
私の目の前に、国家機密にすら存在しない物体が堂々と建っている事を。
少なくとも私が触れる事の出来た国家機密の地図や衛星写真には存在しなかった物体が。
そして国家機密にすら存在しない嫌味ったらしい人物が、私の行く手を阻むかのように堂々と私を出迎えたのだった。
もちろん当初の私は、うまく機会を見付けて特異点まで辿り着こうと、あれこれ思案を巡らせていた。
この店の奥まで進み、更に奥にある住居を突っ切れば、そこにお目当ての特異点があるはずだから、鈴木一郎@パブリックドメインをうまく説得しさえすれば私の望みは叶うだろうと期待していた。
しかし私の期待は鈴木一郎@パブリックドメイのこの言葉と共に見事に砕け散った。
「たまに店の奥の住居を突っ切って特異点まで行こうとする人が現れるんですけどね。そんな人に僕は言ってあげるんですよ。自己責任でどうぞって、にこっと微笑みながら。大抵の人はそれですごすごと引き返すんですよ」
そして私も当然、それですごすごと引き返した。
「でも中には勇敢な猛者もいましてね。でも途中で悲鳴を上げて、結局、自衛隊の特殊部隊に救助される羽目になっちゃうんですけどね。自己責任なのに救助しちゃっていいんですかって特殊部隊の人達にいつも聞くんだけど、あの人達、いつも苦笑いするだけで質問に答えてくれないんですよ。困っちゃいますよね、全く」
そして私はそんな自分の決断が正しかったと、この言葉と共に確信した。
それ以降、私は暫く迷っていた。
この調査任務をどうすべきかと。
もしこのままこちらの都合で調査を止めるとなれば、提供された資金は全額返還しなければならないだろう。
そうなればここまでの旅費等、今まで掛かった経費は全て私の負担になってしまう。
金のない研究者である私にとって、これはかなり苦しい選択だった。
そう思いながらこの古書店内を何気なく見回すと、書棚に数々の特異点に関する書物が並んでいる事に改めて気付いた。
そうだ!
私はこの瞬間、閃いた。
この店に並ぶ書物を調べれば良いのだと。
この店の書物を調べれば、取り敢えずは提供された調査資金に見合うだけの仕事にはなるだろうと。
こうして私は、この店の書物を調べる事に取り掛かった。
「それにしても……」
再び私の頭にあの疑問が浮かんだ。
この店の経営はどうやって成り立っているのかとの疑問が。
そんな私の思いを知ってか知らずか、鈴木一郎@パブリックドメインが空になった私の湯飲みに再び昆布茶を注いだ。
一週間飲み放題三千円ポッキリの昆布茶は格別美味かったわけではないが、特異点のすぐ近くで飲んでいると思うと、やはり格別な味がした。
この地を訪れる者も近頃はめっきり減ったとの噂は以前から耳にしていた。
そして昨日、この店の店主、鈴木一郎@パブリックドメインからもそう教えられた。
しかし特異点が発見されたばかりの頃は、日本はもとより世界中から調査団が派遣され、数多の調査団員によってこの地はごった返したらしい。
私のような無名で金のない研究者には、それがどれ程の賑わいだったのか知る由もなく、ただ想像を巡らせる事しか出来なかったが。
ともあれこの店の経営者である鈴木一郎@パブリックドメインは、どうやらそこに目をつけたらしい。
調査団は調査に必要な機材をより多く運ぶ必要があった為、それ以外の物、特に娯楽関係の荷物を持ち運ぶ余裕が殆ど無かった。
特異点が発見される前からこの地で古書店を経営していた鈴木一郎@パブリックドメインは、これ幸いとばかりに、店の本棚に並ぶ書物を全て娯楽作品に替えたそうだ。
それらの作品を娯楽に飢えた調査団員達にそこそこ高い値段で売りつけたのである。
そして調査団員達が引き上げる際には荷物の邪魔になるからと、安い値段で買い取った。
要するにこの店の経営者は、かつて悪辣な殿様商売で随分とあぶく銭を稼いでいたのだ。
「いやあ、あの頃は本当に良かったんですよ。でも、いい時代って長続きしなくて困っちゃいますね。何か電子書籍とか? そんな物で自由に娯楽作品を読めるようになったみたいで。ほんと嫌になっちゃいますよ。僕の商売あがったりじゃないですか。仕方ないから、今までぼったくって、しこたま貯め込んだ金で、調査団員に賄賂渡して調査資料をコピーさせて貰ったんですよ。で、それをここに置いてるってわけです」
私がここに辿り着いたそうそう、この男は頼んでもいないのに私にそんな話を聞かせてくれた。
特異点に関する調査資料は一般には出回る事がないから闇で高く売れるに違いない。
この男はそう考えたらしい。
しかしこの男の目論見は外れた。
店の本棚に置いた資料を高値で買い取ろうなんて者は現れなかったそうだ。
「いやあ、当てが外れましたよ。何しろここに来る人達なんて、山崎さんみたいな金のない研究者ばかりですからね」
余計なお世話だっての。
そう思いながら私は、本棚から取り出した資料のページを捲った。
幸いこの店の本棚にある書物は、店内で読む分には金を取られる心配はなかった。
但し……
「さあ山崎さん、昆布茶のおかわりをどうぞ」
そう言って鈴木一郎@パブリックドメインは、私がまだ飲み干してない湯飲み茶碗に昆布茶をなみなみと注いだ。
一週間飲み放題三千円ポッキリ。
その間、この店の自慢の昆布茶が飲み放題らしい。
正直、得なのかそうでないのか良く分からないサービスだ。
確かに悪くない味だが、しかし市販の昆布茶に比べて格別味が良いかと言えばそれも微妙だ。
それでも私のような金のない研究者が調べ物の合間に喉を潤すには手頃なサービスなのかも知れない。
そして何より、この店内で書物を読むには、このサービスを受ける必要があった。
もしこのサービスを受けずに書物を読もうものなら、この暇な男にやたらと話し掛けられ、とても調査など出来やしないからだ。
私は昨日、数時間ほどそれを試して、はっきりと確信した。
このサービスを受けた今、この男に話し掛けられる機会はそれ以前に比べれば確かに減っているのだから。
と言っても、この男は私の仕事の腰を折るように何かの拍子に話し掛けて来る。
このサービスを受けていてもこれなのだ。
もしこのサービスを受けていなかったら、私は半日も持たずにこの場から逃げ出していた事だろう。
それに何より、このサービスを受ければテーブルに座ってゆっくり書物を読む事が出来た。
三千円で一週間昆布茶が飲み放題である事も考慮すれば、やはりお得なサービスなのかも知れない。
「以前はそれなりにお客さんも来てたんですがね。だから一週間飲み放題三千円ポッキリの昆布茶だけでいい商売になったんですよ」
なるほど。
以前はもっと多くの研究者がここにやって来てたわけだ。
私の疑問の一部がこれで氷解した。
確かに調査資料目当てに客がそこそこ来ていれば、一週間飲み放題三千円ポッキリの昆布茶のサービスでもこの店の経営は十分成り立つのだろう。
だから私が考えるべき問題はこうだったのだ!
それは今のこの店の経営が、どうやって成り立っているのか?
つまりそういう問題だったのだ!
いや違う!
今の私が考えるべき事は、この地の特異点についてだ!
この店の経営状況についてでは決してない!
私は気持ちを落着かせ、再び調べ物に没頭した。
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