0-0 矢作

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 淡い問答だ。  青春をきゅっと絞って落とした一滴に浮いた、どす黒い水泡のことを何と呼べばよい。  きっと、答えを求めているうちに僕らは大人になっている。  鴎野(かもめの)女奈(じょな)の身体は、制服ごと夏に薄まり始めていた。  後ろで束ねた毛先から、その青春の水たまりに広がっていくように、ピントの輪郭が曖昧に開いたり閉じたりを繰り返す。 「私が歩んできた道を青春と呼んでいいなら」  成熟しきらない身体に湛えた18歳の決心と青い覚悟が彼女に火を灯し、この世界から切り抜かれようとしていた。俯いて前髪に隠れた瞳は、生命力に震えている。 「なぁ、おい、鴎野」僕は言葉を探すが、彼女の名前をもう一度繰り返すことが精いっぱいだった。姿が消えるのと同時にその名前を忘れてしまいそうな気がして、放った言葉を失わないように両手で覆うだけだ。  とうとう後ろの景色を透過し始め、残された時間がわずかであることを示唆した。返せる言葉や行動があるかと思案するが、それを許さない彼女の幽玄さが眩暈をひきおこす。  人は神聖な光を前にしたとき、言葉を失ってしまう。 「その時は、また会いましょう」 あまりにも唐突に訪れたその神秘的な一幕は、網膜に焼き付いて離れることはないだろう。そして彼女は輪郭を失い、その場にあったはずの身体は光の中へ消えてしまう。  取り残された僕らは立ちすくみ、何も言えず、カタルシスの余韻だけが時間を動かしていた。  現実世界へ引き戻すためだけに、パトカーのサイレンがすぐ真下にまで来ていた。  1975年の夏前、法律から背いたシチュエーションにて。  一人の女子高生が、僕たちの見届ける前で文字通り姿を消した。
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