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光
「誰かっ──誰か助けてっ!」
このホテルには知り合いはいない。誰も助けてくれない。
それでも諦めたくなくて、誰もいない部屋に向かって叫び、手を伸ばした。
「誰か!」
「このっ、静かにしろ! これ以上暴れるなら縛るぞ!」
彼の手には、僕のネクタイが握られているのが見えた。
悲痛な悲鳴をあげながら、暗闇に手を伸ばした。
誰かに縋る思いで、必死に!
その次の瞬間、扉が開き、眩い光が射し込んできた。同時に鈍い音がして、僕に馬乗りになっていた男性が視界から消えた。そして誰かが僕の手を握り返してくれた。
優しい声で……「大丈夫だ。怖くないよ」と耳元で囁いてくれた。
「おいっ何すんだ! 勝手に人の部屋に入って来て!」
男性の怒鳴り声と同時に、天井の照明がついたので、茫然と見上げれば、ホテルの制服姿の男性数名が中年の医師を羽交い絞めにしていた。そして僕は淡いスーツ姿の、麗しい男性に支えられるように抱かれていた。
「これは犯罪ですよ」
「誰だ! この青年は私が出版社で見初め、招待した客だ。合意の上なのに邪魔する気か」
「先生、よく見てください。俺のことは、よくご存じでしょう」
「あっ……君は! ホテルのオーナーの……」
「俺の大事なお客さまなんですよ。この人は……」
青年の顔を見た途端、気まずそうに中年の男性医師は顔を背けた。そしてそのまま黒服の男性に両脇を固められ連れ出された。
部屋には僕と彼だけが残された。彼は僕の乱れた服装を隠すために、自分のジャケットを肩に掛けてくれた。
「大丈夫か。怖かったろう」
「あの……」
「君は本当に危なっかしいな。とにかく間に合ってよかった」
少し気持ちを落ち着けて彼を見ると、どこか日本人離れした背の高い美丈夫だった。明るい色の髪は男性にしては長く、白系のスーツがよく似合っていた。僕よりずっと年上らしく、ぐっと大人の余裕の笑みを浮かべている。それでいて、どこかで会ったような懐かしい雰囲気を漂わせていた。
そうだ……雪也がまだ幼い頃によく読んであげた外国の絵本の挿絵だ。悪い魔女によって捕らわれた姫を助け出す、ハンサムで勇敢な青年の絵をふと思い出し、赤面してしまった。
今……僕は一体何を想像した?
いい歳をしてそれはないだろう。しかもこんな状況下で。
「あの……あなたは? 」
「俺は森宮 海里(もりみや かいり)だ」
「あの、どうして僕のことを? それに……何故ここを?」
「おっと、助けてあげたのに質問攻めだね。とにかくここを出よう。あのパーティーは表向きはセレブの集まりのようだが、そうではない輩が紛れているのがよく分かったろう?」
「うっ……」
最初から全て見られていたのか。
会場での醜態も客室で男に犯されそうになっていたのも、何もかも見られてしまった。
恥ずかしくて、キュッと唇を噛んだ。
それから、彼はまるで魔法のように僕に新しいシャツと上着を用意してくれた。両親が遺してくれた物だったのにと。一瞬肩を落としたが、おぞましい記憶が残るスーツから着替えると、ようやく一息つけた。
大事なスーツは失ったが、僕の貞操は守られた。
全てそれは……彼のお陰だ。
「大丈夫か。少しは落ち着いたか。さぁこれを使って」
温かいおしぼりを差し出されたので、彼に背を向けて、他人の唾液が残って気色悪い胸元から首筋を必死に拭いた。気まずい時間だったが、汚れを落とすと漸く安堵できた。
「このスーツ、大事なものだったんだね。もしよかったら綺麗に修理してもらえる店を知っているよ」
「……いえ、もういいんです。僕の浅はかな行動のせいですから。それより服を、ありがとうございました」
「そうか……じゃあ上に飲みに行かないか。そのままでは興奮して帰れないだろう。少しリラックスした方がいいよ」
誘われるがままに、ホテルの最上階にあるクラシカルなバーにやってきた。
「どうぞ。もしかしてあまり飲めない?」
「はい、実は」
彼に助けられたことが、少しだけ後ろめたかった。それに彼が助けてくれた真意がわからなかった。まさか彼も先ほどの医師と同じ目的なのだろうか。どこまでも紳士的だが。
僕は本当は会場に足を踏み入れて暫く様子を窺っているうちに、表向きは着飾った上流階級のパーティーだが、男同士の社交場を兼ねていることを理解していた。その先に待っているものが何かも、知っていた。
これでも出版社の平社員として世間の荒波に揉まれて来た。そういう世界があることも、その時教えてもらったから。それでも敢えて気付かないふりをして、会場内を歩いていたのだ。まるで声を掛けられるのを待つかの如く。
恥ずかしい……もう少しで、自分の身を自分で堕とすところだった。
「参ったな。そんな顔をするなんて。俺は取って食いやしないよ」
「あなたは、では何で……」
「おれはあのホテルの息子だよ。表向きは健全でも、そこに紛れて如何わしいことをしている団体があると聞いて、潜り込んで調べていたのだ」
「あ……そうだったのですか」
拍子抜けした。彼が男を買いにきたわけでないのに安堵したのと同時に、何故か少し寂しい気持ちになっていた。どうして、こんな気持ちに?
「でもね君のことは、ずっと見ていたよ」
「それはなぜですか」
「……好みだった。掃き溜めに鶴のような清廉潔白な姿に惚れてしまった」
彼の手が僕の手に重なると、ストレートな言葉と温もりに胸が高鳴った。先ほどあの中年の男性に触れられた時は、おぞましい気持ちだったのに何故だろう。
「僕は、そういうつもりでは」
「ふっ君のそういう所もいいね。さぁ、もう今日は帰った方がいい。君は自分の魅力に無防備すぎるよ。ここにはパーティーから流れてきた客がいるようだ。邪な視線ばかりで居心地が悪いだろう」
森宮さんは、どこまでも大人で紳士的だった。華やかな容姿のせいか、第一印象は浮ついた人間かもと警戒してしまったのが、恥ずかしい。
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