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大切な弟
「乗って」
BARを出るとエスコートされるように駐車場に連れて行かれた。
こんな風に丁寧に扱ってもらうのは、いつぶりだろう。嬉しい反面、いきなり自家用車に乗るように言われて戸惑った。さっき出会ったばかりの人間を警戒するのは普通だろう。
「ふっ、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。まだ酒は口にしていなかったし、君は魅惑的だが、俺は節操なく手を出す程、困ってはいないよ。そんなに警戒されると、君が意識し過ぎていることになるよ? 」
「あっ」
さっきから何度目だろう。穴があったら入りたくなる程の恥ずかしさ。両親が突然いなくなってから、僕はずっと一人で奮闘してきた。だから、こんな風に誰かに力強く助けてもらうのに弱くなっている。自分の中の甘えた心を罰した。
彼の運転は滑らかで、乗り心地が良かった。
彼からは上流階級特有の余裕が滲み出ていた。それに彼のトワレは懐かしい香りがする。両親が健在だった頃の華やかな日々を思い出してしまうよ。
それにしても……猛烈に眠い。
たった一杯のグラスのシャンパンで、酔ってしまったのか。
次の瞬間、ゆさゆさと肩を揺さぶられた。
「柊一くん、起きられる?」
「あっ僕、寝ていましたか」
信じられない! 初対面の人の運転で眠ってしまうなんて。
「歩ける? 危なっかしいな。ほら肩を貸して」
疲れと緊張とで酒が一気にまわったようだ。フラフラな足取りを心配して、彼が肩を貸してくれた。
「すみません……」
消え入るような声で告げると、彼は軽く微笑んでくれた。
「気にするな。君は頑張りすぎだ。さぁおれの肩に掴まって」
なんだろう。この人の居心地の良さは格別だ。
***
玄関の鍵を開けると、とても静かだった。
いつもなら「お帰りなさい」と可愛い声で出迎えてくれる雪也がいないのが気がかりだったが、急に吐き気が込み上げ、トイレで嘔吐してしまった。
口の中が気持ち悪かったので歯を磨き、顔も洗った。あの男に舐められた胸元もまだ不快で、ボタンを外して拭くと、ひどく焦燥した自分の顔が洗面所の鏡に映っていた。
あぁ……本当に疲れた顔をしている。
酔った僕を送ってくれた彼を思い出し、慌てて戻ると、まだ玄関にいてくれた。
「お待たせして、すみません」
「良かった……顔色が戻ったね。大丈夫だった? 少しすっきりしたか」
「はい、すみません。よかったらお茶を飲んで行ってください」
「こんな時間に……いいの?」
「ええ、あなたなら」
よく知らない人をいきなり家にあげるなんて大胆なことを……しかし僕は彼を最初から信じられた。なんだろう……この安心感って。
「ソファでお待ち下さい」
「内装もクラシカルで、いいお屋敷だ」
「古いだけで手入れが大変です。あの……実は弟が上にいるので、呼んできてもいいですか」
「あぁ、ぜひ挨拶させてくれ」
「はい」
***
トントン──
「雪也、入ってもいい? もう寝てしまったのか」
いつもなら僕の帰りを待ち侘びて出迎えてくれる、可愛い弟の姿がずっと見えない。不審に思いドアを開いた途端、驚愕した。冷たい床にパジャマ姿の雪也が倒れ、苦しそうに呻いていた。なんてことだ!
「雪也っ、雪也! 大丈夫か」
「うっ……にいさま……むね……くるし」
弟は真っ青だ。胸を押さえ、ヒューヒューと細い息を吐きながら、苦痛に顔を歪ませていた。
「雪也! しっかりしろ!」
僕の驚愕した声を聞きつけた森宮さんが、ドンッとドアを開けて駆けつけてくれた。
「どうした?」
「あ……弟が!」
「どけっ!」
彼はすぐに弟に人工呼吸と心臓マッサージをしてくれた。医療の心得があるようで手際よかった。やがて森宮さんの額に玉のような汗が浮かぶのと引き換えに、雪也の呼吸が楽になってきた。
僕は、必死に弟の処置をしてくれた森宮さんの姿に、ひたすら深い感銘を受けていた。
「……うっ……ごめんよ。こんな時に限って……雪也を一人にして」
「君っ! ぼんやりしていないで、早く救急車を呼んで」
「あっ、はい!」
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