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白薔薇の覚悟
病院のベッドの上で落ち着いた寝息をたてる弟の姿を見て、僕は涙した。
僕があんなパーティーに行ったせいで、すぐに発作に気付いてやれなかった。こんなに弟の身体が衰弱していたなんて……仕事にかまけて、申し訳ないことをした。
今日は一命をとりとめたが、この先どうなるか不安で仕方がない。先ほど診察して下さった医師の話だと、弟の心臓はもうかなり弱っており、すぐに手術をしないと、大人になるまでもたないと宣告された。ショックだった。
とにかく治療費を作らないと。だが手術にはどの位お金がかかるのか、僕は無知で見当がつかない。いよいよ途方に暮れてしまう。あの屋敷を売って暮らして行くしかない。だが、すでに大部分が抵当に入っている家だから、手放しても手元に残るお金は限られているのが現実だ。もう八方塞がりだ。
気が付くと病室から背を向け、ふらふらと病院の屋上に来ていた。仰ぎ見れば無数の星が夜空に広がっていた。病院は高い建物だから、大きく伸びている樹木の新緑の匂いが濃く立ち込めている。
生命の息吹を感じながら、ここから弟と飛び降りたら楽になれるのでは、そんな馬鹿なことを考えてしまう程、追い詰められていた。
両親との思い出の詰まった屋敷。
僕の曾祖父が建てたクラシカルな煉瓦の洋館。
今の季節は外壁に白薔薇とツタが絡まり、趣が一層増している。
何もなければ幸せだった僕の未来。
弟まで失ったら、もう、生きていく意味がない。
ならば、いっそ……
***
覚悟を決めて、今度は病室で目覚めたばかりの弟を誘った。
「雪也、兄さんと一緒に行こう。この病院の屋上からは、星が綺麗に見えるよ」
「兄さま、ごめんなさい。具合が悪いことを黙っていて」
「いいんだよ。言えなかったのは僕の不甲斐なさからだ。雪也はお父さまやお母さまに会いたくない? 」
「えっ会えるのですか」
「うん、一緒に行こう」
「嬉しいです」
砂糖菓子のように微笑む弟の様子に、胸が締め付けられる。
許して欲しい……
家も奪われ、可愛い弟の死を待つだけなんてむごすぎる。
穢される前に。逝ってしまえばいい。
何も知らない雪也は、屋上で両手を思いっきり空へと伸ばした。
「うわぁ、星が一面ですね。いつもは兄さまが夜風は身体に悪いからと外に出してくれないのに、今日はどうしたのですか」
「雪也……一緒にいこう」
「えっ?」
幼い弟の目が、突然光を失った。
すぐに僕が望むことを察知したようだ……賢い子だから。
「駄目です……兄さま、そんなこと。僕は自分が長く生きられないのは知っています。ですが、そのために兄さまが犠牲になるなんて!」
「雪也をひとりで逝かせたくない。ならばいっそ、今!」
「兄さまっ」
「さぁ」
「やめて!兄さまっ、そんなことしちゃ駄目です」
「僕なんて……誰も必要としていないよ。僕には雪也だけだ。お前が唯一の肉親だ」
「それは違います……寂しいのなら新しい家族を作ればいいのです。僕は知っています。兄さまを愛している人がいます!」
「何を馬鹿なことを」
「あっ兄さま! 駄目! 嫌だ!」
雪也の細い身体を抱き上げて、僕は錆びた白い手すりを一気に超えようとした。
新緑の匂いが僕を呼んでいる。
僕の目からも雪也の目からも、はらはらと涙が散っていく。
「その人は兄さまの傍にいます! 今日だって助けてくれました」
「えっ」
その瞬間、僕と雪也の身体は、背後から伸びて来た逞しい腕によって、力強く抱き戻された。
「全くなんてことを! 目を離した隙に、君って人は!」
「あっ海里先生!」
「……もっ……森宮さん!」
雪也と僕の声が重なった。これは一体どういうこと?
次の瞬間、僕は彼に頬を思いっきり叩かれた。
「命を無駄にするな! 簡単に諦めるな!」
一喝された。こんなに真剣に誰かに心配されたのは、いつぶりだろう。
「……なぜですか」
「兄さま、やっと海里先生と知り合えたのですね。僕は兄さまよりずっと前からの知り合いなんですよ」
「一体どういうこと?」
「海里先生は、僕の先生です」
「何だって?」
「お母さまと一緒に何度も大きな病院に行っていたでしょう。その時から僕を診て下さっている主治医の先生です」
「そんな……先程はホテルの息子だと……」
「あぁ、まぁそれは、俺は次男坊で、つまり本業は医師だ」
「お母さまが亡くなってから、何度も兄さまと一緒に通院したのを覚えていないのですか」
「ごめん。あの頃はバタバタしていて、よく思い出せない」
行ったことは覚えていても、医師の顔まで気にかける余裕がなかった。借金の返済に追われ、頭が一杯だったから。
「そうなんですね。先生は兄さまを見かけて以来ずっと好きだったのに、兄さまは何も覚えていなかったのですね。実は、病院に行けなくなった僕を心配して下さり、何度か訪ねて下さいました。兄さまのことを、その度に聞かれるので、流石にその想いに気付きました」
「なんだって……」
そんなこと知らない。聞いていない。
思わず彼を見つめると、彼は少しきまり悪そうに笑っていた。
「出会いのきっかけをずっと探っていたが、君はいつも帰りが遅くて会えなかった。なのに今日。まさか、あのパーティーで会えるとは。兄に頼まれ監視していた場所に、突然君が現れた時には息を呑んだよ。まったく無茶な真似を!」
「ですが……僕は……どうしたらいいのか分からなくなって……」
「俺を少しは頼ってくれないか。 雪也くんの許可は、もう、もらっているよ」
「あの……それって、まさか」
「つまり君が好きだ。ずっと追いかけていた。一目惚れから始まったが、知れば知るほど好きになった。君が頑張っている姿をずっと応援していた」
「兄さま、僕も願っています。応援しています。海里先生は頼り甲斐があって大好きです。だから兄さまにも……少し肩の荷を下ろして欲しいのです。今まで全てを押し付けてごめんなさい」
「雪也……」
小さくて頼りなかったはずの弟が、急に大人びて感じた。
つまり僕は、僕自身も弟も、白薔薇の洋館も……捨てなくていいのか。
彼と未来を歩む道。そんな道があったなんて。
「柊一、改めて言うよ。俺と付き合ってくれないか」
こんな展開信じられない。
まるで幼い雪也に読んであげた『おとぎ話』のようだ。
「うっ……僕もあなたと今日会った時から、実は惹かれていました」
自分の心に素直になろう。あの危機を助けてくれた時から、僕は森宮さんが気になって仕方がなかった。
心落ち着く人……そんな存在は初めてだったから。
荒廃した中庭。それでも白薔薇だけは枯れずに、逞しく成長し、美しく咲き誇っていた。
その意味を今日、僕は知った。
白薔薇の花言葉は『純潔』だ。
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