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罠
次の土曜の夜。僕は意を決してクローゼットの中から薄鼠色の一張羅、三つ揃いのスーツを選んだ。両親が健在の頃、成人の祝いに仕立ててもらった高級品だ。これならば、どんな場所に出ても、恥ずかしくないだろう。
ホテルの受付に半信半疑で招待状を差し出すと、確かに出席者名簿に「冬郷 柊一」という僕の名があった。入り口でグラスシャンパンを受け取り、会場へ足を踏み入れる。
「なんだろう?」
僕へ向けられた視線に、はっとした。
会場には女性もいたが、圧倒的に男性が多かった。僕と同年代の青年から上は初老の男性まで様々だ。居心地の悪い視線の意図が分からないまま、誰一人と知り合いがいない会場を当てもなく彷徨った。
あっ……まただ。まるで値踏みされるように見られている。身体中に張り付く不躾な視線に居たたまれなくなり、窓辺の暗闇に紛れようとした時だった。
「やぁ柊一くん。やっぱり来てくれたんだね。いかがかな、このセレブパーティーの居心地は」
ハッとして振り向けば、そこには中年の男性が立っていた。
「あの……何故、僕の名を?」
「ははっ、君のことはよく知っているよ。冬郷家のご令息だったのに、今は事業を畳んで神田のしがない出版社に、お勤めだよな」
相手は見知らぬ男性なのに素性がバレているのが気持ち悪くて、その場を去ろうとしたら、腕をグイッと掴まれた。
「まぁ少し話そうか。君の弟さんは重い病気だとか」
「何故、それを?」
「それでお金に困っているそうだね。悪いようにはしないよ。私は医師だよ。いい病院も紹介できるし、なんなら弟さんの手術代も援助してあげられる」
「……見ず知らずの人が、何故?」
「つまり君のパトロンになってあげようと言っているのだ。ただし欲しいものがある」
「何を……」
「ははっ、君は純真だな」
嘘だ。分からない程……僕は初心ではない。
この時点で会場に男性が圧倒的に多い理由の真意、先ほどから僕が値踏みされていたことを理解した。
心の奥底では、もしも親切な紳士と出会えれば、少しお金を融資してくれるかもしれない。そうすれば雪也の治療費の捻出や洋館の維持も出来る。そんな浅はかな甘い考えを持って、このパーティーにやってきたのを認めよう。
だが現実は違った。握り締められた汗ばんだ手に、ぞくりと粟立つ。やはりそんな甘い話はない。融資には代償として僕の身体が必要なのだ。
「さぁ向こうで二人きりになろう。想像通り間近で見る君は、清楚で美しいな」
「……」
全身を舐めまわす視線が不快だ。
どうしたらいい? 僕が我慢して、この男性に身を明け渡せば、弟の命が救えるかもしれない。そんな有り得ない考えが芽生えて、抵抗する気持ちが萎えていく。
「いい子だね。援助は惜しまないよ」
「うっ……」
パーティー会場のカーテンの陰で、男性の手が、僕の腰から下半身へのラインを馴れ馴れしく撫でてくる。その執拗な動きに、ぞくりと背筋が凍った。
「……やめて下さい」
「まずは今夜、一晩でいい。いい子にしていれば、手術代が手に入るよ。少し我慢するだけだ。さぁこのワインを飲んでご覧。緊張を解せるよ」
渡された深紅のワインには、気泡が浮いていた。
きつく閉じた唇をこじ開けようと、ざらついた指が撫でてくる。腰を撫で回す手のひらは、尻の窪みにまで達していた。
「や……っ」
「桃のような、美味しそうな尻だな。ほら、ちゃんと持って」
震える手に、グラスを握らされる。彼の指先はスーツの隙間からワイシャツの釦を弄り出していた。さらにもう一歩カーテンの奥へと連れ込まれてしまった。
何故……僕は逃げられないのか。このままでは身を堕としてしまう。緊張と不快のあまり、身動きも言葉も発せられなくなっていた。無理やり唇を手でこじ開けられ、同時に男の太い指先がワイシャツのボタンをふたつほど外し無遠慮に侵入してきた。
「なっ何を?」
「やはり滑らかな肌だな」
男の指が僕の乳首に直に触れた時、激しく動揺した。
絶対に無理だと思った。
更にその指先で僕の胸の尖りををギュッと抓ってきた。体験したことのないおぞましい感覚と痛みに戦き、大きな悲鳴をあげそうになった。
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