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♯1
テレビから流れる明日の天気予報から「雨」という言葉を聞くと、憂鬱になる。
昔は、明日の天気は雨と聞くと、物凄く嬉しかった記憶がはっきりとあるだけに、気分的に滅入りも加わり、憂鬱さは半端じゃない。
「お、来たな、浅川美雨(みう)。下駄箱から保健室直行だな、その感じだと」
正式な職業名は養護教諭、簡単に言ってしまえば保健の先生、通称保健医の卯月先生は、若くてちょっとイケメンというところから、着任早々女子生徒の人気を集めたのだけれど、なんていうかそっけない態度連発で、半年も経たずその人気は一気に下落した。
その下落はあたしにとってとても都合がよく、今では所有物のような存在になっている。
「当たり。朝から雨って、どんな嫌がらせなのよ、この天気」
「嫌がらせって……一昨日、梅雨入り宣言していたんじゃなかったか?」
「……だとすると、梅雨明けするまで保健室にお世話になります、卯月先生」
「いやいや、梅雨関係なんだろう、浅川の場合は。雨が降れば保健室に直行、今に始まったことじゃないし、担任からもよろしくと言われているし」
「しょうがないな、て顔をしているよ、先生」
「バレたか? まあいい。気分がいいならこのプリントをやるようにと託された。私は私で仕事があるから、我慢できないくらいの悪さになるまで、声をかけるなよ?」
眼鏡の奥の瞳が笑っていない。
表情はいつもとかわらず柔らかいのに、口調も優しいのに、先生はいつだって瞳だけは冷たさを帯びている。
真面目な話をしているんだと言っているからというだけではなく、この冷たい瞳も人をつけ放しているような雰囲気をだしている理由のひとつ。
それが嫌で離れていった生徒も多いけど、あたしは無駄に優しさを振りまくより、つけ放したような感じの先生がよくて、よく目で背中を追ってしまっている。
今も、ベッドの上に腰かけてプリントを見ながら、チラッと先生の姿を目が追っている。
雨の日はいつもより毛先が大きく跳ね上がっている。
クセ毛が膨張したような感じで、髪にボリュームがある。
均等のとれた肉体を惜しみなく見せるような私服の上から白衣を羽織り、男らしい手と長い指でペンを取って机に向かう。
ちょうどあたしの位置から、先生の横顔が見えるの。
先生の横顔をじっと見ながら、一応手にはシャーペンを持ち、プリントをやっているフリだけをする。
先生が少し動くと視線を外し、セーラーの襟を直したりスカーフを気にしたりして誤魔化す。
こういう時間がちょっとだけ嬉しくて、あたしは雨の日もそんなに悪くはないかもしれないって、時々思う。
雨の日は悪くない、雨の日が好き、雨の日が待ち遠しい――
記憶が遡って行く。
◆◇◆◇◆
赤い傘にお気に入りのアニメキャラクターがワンポイントとしてついているのが、あたし的にはお気に入り。
その傘に合せるように、レインコートも長靴も赤で揃えてもらった、生まれてはじめての、あたし用の雨グッズ。
今から何年前かな……多分、十数年前。
記憶の中のあたしもママも、凄く若い。
あたしに至っては、若いというか幼い。
この頃のあたしは、本当に雨の日が大好きだった。
やまない雨に感謝するくらい。
「美雨、まだみているの?」
「うん。あしたも雨だよね? 明日もこれを着てお出かけするんだよね?」
「お出かけって……ママは雨の日くらい、おうちの中でゆっくりしたいわ」
「え~ 行こうよ、お外。お買いもの、行こうよ、ママ」
家事に忙しいママの服の裾を掴み、ダダをこねるあたしに、ママは困ったように笑う。
ママはわかっていたのかしら、あたしが赤い傘を選んだ理由を。
あたしの中にある傘のイメージは『赤』だった。
パパの黒い傘とママの赤い傘が並び、あたしはパパの腕に抱かれている。
傘をさして並んで歩くふたりはとても楽しそう。
傘を持って出なかったパパを駅まで迎えに行くママの赤い傘も印象的で、その赤い傘をパパにさしてあげる優しさのようなものもある。
ママは憧れの女の人で、ママに近づきたくて赤い傘を強請った。
「もう、美雨ったら。本当に雨の日が好きなのね。いいわ、じゃあ行きましょう。でも、おやつは買わないわよ?」
おやつよりもお気に入りの雨グッズで出かける方が好きだったあたしは、大きく頷いた。
でも、雨の日が好きというあたしはいつしかいなくなる。
雨なんて嫌い――雨の意地悪、そう思うようになったきっかけは、意外と簡単なことだった。
あれはいつだっただろう?
多分あれは、はじめての遠足。
小学校に入ってはじめての遠足だったと思う。
雨のせいで楽しみが奪われたのははじめてではないと思う。
雨で中止になっても、その見返りがちゃんとあった。
例えば家族と行く旅行や遊園地も、雨で中止になっても翌週に実現したり、代わりに夕食が豪華になったり。
それで納得できるほど大人でもなかったけれど、子供心にそういう事情はどうにもならないのだと理解していた。
――というよりか、パパやママの困った顔を見たくなかったから、理解ある子供のフリをしていたと言った方がいいかもしれない。
でも、この学校の遠足は少し違った。
いくら生徒がダダをこねても、学校の行事というものはそう何度も振替で実現するものでもない。
雨天決行という話もあったとは思うけれど、雨の中強行して子供に何かあったら……と心配を口にする親もいたと思う。
子供の願いより、大人自身の保身が優先。
雨が降れば全て流れてしまう。
雨なんて雨なんて……雨なんて大嫌い。
真新しいリュックサックから取り出したお弁当を、教室で食べる羽目になるという残念な経験は、あたしにとってとても屈辱的な出来事だった。
雨があたしの行く手を阻んでいる――と思うようになったのは、小学校高学年くらいからだと思う。
林間学校、出発の日は晴れていたけれど後半は雨で、最後の日のキャンプファイヤーは中止、バンガローでのキャンプも中止、全員近くのホテルで夜を明かすことになる。
友達同士で泊りの旅行なんてはじめてで、親と離れての宿泊を楽しみにしていたのはあたしだけではなく、がっかりのため息とざわつきは暫く続いたのを覚えている。
続いて小学校最後の運動会、あたしはチアリーダーっぽいものに抜擢をされ、ママに衣装を作ってもらい、放課後必死にダンスを覚えたのに、雨で中止。
延期日にしていた日も雨で、結局平日巻で実施された為、保護者観覧なしでの寂しいものだった。
卒業式も雨、真新しい洋服を着せてもらえても、ちっとも嬉しくない。
中学の入学式も雨、修学旅行の半分が雨。
ここまで来るとあたしが雨女なんじゃないかって思えてならないけれど、全てが雨になるわけでもない。
だから、雨があたしの行く手を阻んでいる。
邪魔をしているんだと思うの――
◆◇◆◇◆
「浅川、大丈夫か?」
突然声をかけられ、記憶が現在に引き戻される。
ハッとして視点を声のした方へと向けると、卯月先生の顔が間近にあった。
「せ、先生?」
慌て焦ったあたしは、手に持っていたシャーペンを放り投げ、身体の重心が後ろへと傾く。
そのまま寝転がりそうになる身体を、先生が間一髪で腕を掴み引き戻してくれた。
「おまえ、何ボーとしていたんだ? 私は何度か声をかけたぞ?」
先生の呆れ顔と心配そうな声のトーンに、何をしているんだろうあたしと恥ずかしさが募る。
先生から目をそらすあたしだけど、先生はそんなあたしに構うことなく、落ちたシャープペンを広い、まだ途中のプリントの上に置く。
「なんだ、まだ半分か。もう午前の授業は終わっている。このプリントが終わったら、今日は帰っていいらしい。私は私で用があるからこれで帰るけど、浅川はどうする?」
どうすると聞かれても、あたしは状況把握、まったくできていないんだけど。
「浅川? おまえ、本当に大丈夫? 具合、悪いならもう帰っていいぞ? 担任には私から説明をしておくから」
「あの、平気です。ちょっとびっくりしただけ」
「びっくりって……ボーとしていたが、本当に平気か?」
「あ、うん。平気。プリント、やればいいんだよね。やって職員室に届けて、そして帰る」
「そうか? だが保健室し閉めて出たいんだが……」
「どうして?」
放課後、運動系の部活の方で何かあるといけないからと、鍵を閉める事はないのに……
「これからさらに雨足が酷くなるらしい。午後の授業はカット、当然部活動も全て中止。生徒は通常の昼休み時間が終わる時刻までに全員下校してまっすぐ帰宅だそうだ。交通機関にも支障が出始めているらしい。電車やバスを利用している生徒は状況把握の為、担任に確認をとる。親に迎えに来てもらえそうなら連絡をするように……だそうだ。浅川は徒歩だったな。自力で帰れそうか?」
帰れそうかって……そんなに酷いの?
あたしは先生の質問に答える前に、窓の外を見た。
交通機関に支障が出ていると聞けば台風並みの凄さを想像したんだけど――
「先生、この程度の雨で電車とかって止まるものなの?」
確かに強い雨だとは思う。
コンクリートの道にちょっとした小川が出来てしまっているし。
でも、そういう雨は決して珍しいというわけでもないと思う。
「これから酷くなるらしい」
一応、あたしの問いに答えてくれているけど、それ、あたしの欲しい答えじゃない。
「それだったら、今はまだ平気なんじゃないの?」
「一部はな。ここ、高台にある学校だってちゃんと認識しているか? 浅川は区内から通う生徒だからあまり意識していないと思うが、別の区や市から来ている生徒の多くは電車やバスを使っている。最寄駅に行くには坂を下らなければならない」
そこまで言われてやっと気づいたあたしは、ああと相槌を打った。
「そっか、あそこ水はけが悪いのよね。酷い時はちょっとした川になってしまうし。そうか、酷くなるとそこを通らなくてはならないバスが通れなくなる可能性があるわね」
直通のバスが通れなくなると遠回りをしなくてはならなくなる。
それに、地上を走る電車ならいいけど、上を走る電車はよく止まるのよね。
そういうことを予期しての、午後の授業カットというわけね。
「そういうことだ。で、浅川は平気か?」
「うん、平気。駄目そうなら家に電話してママに迎えに来てもらう」
「そうか。ならば私はこれで帰るが、いいか?」
残りは職員室でやれと言われ、半ば強制的に保健室を出されたあたしは、まったくこちらを気に掛ける様子もなく去って行く卯月先生の背中を黙って見ていた。
これから雨が酷くなると言うのに、用事?
午前中だけなら、朝の内にそれを言うよね。
なんか納得できないモヤモヤがあたしの中で大きく膨らんでいく。
そのモヤモヤが何かを知りたくて、あたしは職員室に行かず、卯月先生の後を追いかけた。
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