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♯3
「おまえ、帰れ」
自身の気持ちに気づいてしまい立ち尽くしたあたしに、先生の言葉は冷たく突き刺さる。
保健室での先生の面影は微塵もなくて、生々しく女性を抱いたひとり男が、つきまとう興味のない女に言い放つ、そんな感じ。
多分ね、先生のこと、特別に感じていなかったらそんな風には思わないんだろうな。
好意があるから、冷たく感じる。
自分と同じ好意がないから――
でもきっと、学校の中では保健医と生徒という関係は続けてくれると思う。
両方を失いたくないと思ったから、わかったと言って帰るんだよ美雨……と言い聞かせる。
でもね、無理だった。
先生の隣にいる女性の言葉と態度が、あたしを頑なにさせていく。
「そうよ。お子様は帰りなさい。ここはね、大人の来るところなのよ」
女性は先生の言葉に便乗してあたしを罵るような言い方をする。
もしここで、私の恋人をとらないで……とでも言ったら、あたしはきっと横恋慕する気はないと言えたと思う。
純粋に思ったわけじゃなくて、先生に面倒くさい女だと思われたくない、ただそれだけなんだけど。
先生の身体に絡む腕、寄せる顔。
そのまま見せつけるかのようにキスをするんじゃないかって思った。
「帰るのは、おまえもだ。うぜぇんだよ。ベタベタと」
「え? ちょっ……賢哉?」
「勘違いするな。俺たちの間にあるのは、互いの性欲を満たすという利害の一致だけ。そして、これは口止め料な」
あたしに向けた言葉よりもはるかに鋭くて冷たい言葉を女性に浴びせながら、数枚の万札を差し出す。
「本気なの、賢哉。そりゃ、性欲とお金目的だったけど、本当にそれだけで股開く女がいると思っているの?」
「いるだろう、俺の目の前に。知らないとでも思っているのか? おまえ、俺の他にもいるだろう……金払いがいい脂ぎったおやじとか、もう勃ちそうにもない老人とか。金があれば誰にでも股開いて耳元で喘ぐ」
「賢哉……くっ……私が女子高生に負けるなんて。覚えてらっしゃい。この恥、倍以上にして返してやるわ」
憎々しげに言い放ち去っていくけれど、しっかりお金は貰っていた。
まさかの逆転勝利というやつ?
――と思ったけど、先生の顔を見るのが辛くて、あたしはそのまま背を向け立ち去ろうとした。
でもその行為はすぐ止められる。
先生の言葉によって。
「おい、勝手にどこ行く気だ? 傘を帰らせたしまったんだ、傘の役目くらいしろよ、浅川」
え? と自分の耳を疑い立ち止まる。
振り向いて確認するより早く、先生があたしの傘の中に入ってきた。
「色気のない傘だが、ないよりはいい。ほら、傘貸せ。浅川が持つと俺は中腰で腰痛めそうだ」
手渡すより先に、あたしから傘を奪い、肩を抱き寄せる。
それでも安いビニール傘だから片方の肩はどうしても濡れてしまう。
でもなぜか、あたしの肩は思ったより濡れていなかった。
先生がその分、請け負っていてくれたから。
それを知ったのは――
◆◇◆◇◆
「バスルームの横に洗濯機がある。濡れた服放り込んで乾かせ。その間、シャワー浴びてろ」
シャツが透け肌が薄らと見える。
髪の毛先から滴がしたりながら、駅から程近いマンションの一室の中で先生が言う。
外装からして家賃高そうと思える、その建物の一室に先生と共に入ると、まるで自分の部屋に招き入れたような対応をあたしにしてくる。
「あの、ここって……?」
「あ? 変な勘違いはするなよ。ここは俺の部屋じゃない。俺の身内の持ちものだ。駅から近いし見た目も申し分ないだろう?」
「うん……」
「浅川のような子供にはまだわからないか。セカンドハウスというやつだ」
あたしにはわからないと前置きをされたことで、なんとなくわかってしまった……
あれよね、先生がラブホでしていたことと似たようなことをする為に用意した、普段使っている部屋とは別の部屋。
先生の持ち物ではないと言っていたけど、それが本当でも嘘でもあたしには関係ない。
濡れた制服が肌に触れ、次第に体温が奪われていく。
寒気を感じて両手で自分の身体を抱きしめた。
別にそれ以外の思惑とかなかったんだけど……
「安心しろ。生徒に性欲抱くほど堕ちちゃいないし、不便もしていない。その格好でバス乗るわけにもいかないだろう? それに、親だって心配する」
「この雨だもの。制服が濡れたくらいで心配はしないと思う」
「……そうか?」
それに対し、あたしはただ黙って頷いた。
それから先生が小さくクシャミをしたので、先にどうぞと言うと、濡れた女をほったらかして自分だけ先に温まるような男に格下げさせたいのか……と言う。
その口調にちょっと優しさを感じたあたしは、そのまま先生の言葉に甘え、バスルームへと向かう。
生徒に手を出さないといいながら、あたしを女扱いしてくれる。
先生の本心がわからない。
わからないというよりは、ぶれ始めているような気がする。
もしかしたら……
そんな淡い期待があたしの中で生れ始めていた。
乾いた制服を着て最初にいた部屋に戻ると、濡れた服を脱ぎバスローブを羽織った先生が冷蔵庫の中を覗いていた。
「浅川、おまえは何を飲む? と言っても子供が飲めそうなのは水くらいしか置いてないが」
――と言いながら、珈琲メーカーがあるのに気付いた先生が、シャワー浴びてくる間に淹れておけと言って部屋を出ていく。
あたしの人生の中、自分の家以外に行った事のある家といえば、親戚の家くらいで、同年代の友達の家にすら行った記憶がない。
年上で男性で、しかも高校の校医の部屋に躊躇なく入れてしまっているこの現実に、今になってちょっと驚いているあたしがいる。
しかも、服脱いでシャワーまで浴びて。
男の人がシャワー浴びている間に珈琲を淹れる。
それってまるで、男と女の世界みたい。
男と女――ママの赤い傘を思い出す。
もしかしたら、そういう意味もあったのかもしれない。
パパを迎えに行く時のママ、真っ赤な口紅をしていたような気がする。
さっきの女性と重なるママの記憶。
もし、あたしも赤い傘、真っ赤な口紅をして先生の前に行ったら、ただの生徒から女に変われるだろうか。
憂鬱な雨も、いつまでもやまないで欲しいと願う程、好きな雨に変わるだろうか。
そう思うといても経ってもいられなくなったあたしは、珈琲が出来上がり先生と飲む時間も惜しくなくなり、その部屋を飛び出していた。
◆◇◆◇◆
翌日、昨日の出来事が嘘のように、空は晴れ渡り少し暑い日差しが濡れた地面を照らしていた。
そのことにあたしはホッと胸を撫で下ろした。
先生に会わなくて済むから――という理由なんだけど。
意識してしまっているのに、会いたくない理由はただひとつ。
昨日、何も言わずに出て来てしまったことを少し後ろめたく思っているから。
でも、神様はそんなあたしの気持ちをしっかりとわかっていたようで……
「浅川さん。卯月先生が昼休み、保健室に来いって言ってたわよ? 昨日、忘れ物でもしたの?」
4時限目の体育の時間、転倒したクラスメイトに付き添い保健室に行っていた睦さんが戻りあたしに告げる。
呼び出された理由はきっと、昨日の口止めの再確認かな……
それとも、何も言わずに出てしまったことへの何か……
どちらにしても、あたしにとってよくないことしか思い浮かばず、伝えてくれた睦さんに対しても、よそよそしくなってしまう。
「ありがとう。昼休みに行けばいいのね」
「ええ。じゃあ、伝えたわよ」
そう言い残し、彼女は抜けた授業に戻って行った。
あたしはと言うと、運動そのものが苦手で、どうやったらやっているように見せてサボれるかということに必死。
運動神経に自信があるクラスメイトを遠巻きにみながら、体育の先生との距離を取る。
サボっているのはあたしだけじゃないしね。
なんとか苦手な体育の時間をクリアして、あたしはそのまま保健室へと向かった。
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