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♯4
翌日も晴れたけれど、卯月先生は休みで会う事はなかった。
前日、昼休みと言われたのに4時限目終了後に保健室に行ったことを、少しだけ悔やむ。
そんなあたしの気持ちを天が察したのか、土曜日は朝から強い雨が遠慮なく降っていた。
あたしは教室に行く事なく保健室に向かったのだけれど、その扉には鍵がかかり、硬く閉じられていた。
仕方なく教室に向かうと、今日も卯月先生が休みだと知らされる。
担任から、天候の事もあるし具合が悪いのなら早退をしていいと厄介払いのような対応をされ、あたしはそのまま学校を出る。
耐えられないくらい具合が悪いのではない。
気分的に憂鬱なだけ。
それをどう説明したらわかってもらえるのか、きっと何をどう説明してもわかってはもらえない。
決めつけたわけじゃない。
あたしなりに、どうにもならない体質のようなものを説明している。
どうにもならない憤りのようなものに救いの手を差し伸べてくれたのが、卯月先生だった。
向こうはそんなつもりはないと思う。
勝手にあたしがそう思っているだけ。
保健室にいさせてくれる、それだけでもかなりの救いだったから。
その保健室に入れないと、あたしの居場所は本当にないんだと改めて感じる。
学校を出たあたしは、家とは逆の駅に向かうバスに飛び乗っていた。
◆◇◆◇◆
赤い傘、真っ赤な口紅。
でも服は制服――そこだけが、あたしを子供にしているよう。
なんどか引き返そうかと思ったけれど、結局来てしまった……卯月先生と一緒に入ったあのマンションに。
先生の部屋というか、身内が所有していると言っていた部屋に灯りはない。
まだ昼近くだけど、どんよりとした雨雲が薄暗さを演出し、昼間でも電気を点けている部屋は多い。
だからかな、余計灯りの点いていない部屋は目立つ。
あの日、先生と女性が入って行ったラブボの前で待っていた時と同じ、あたしはただそこに立って待っていた。
その部屋に灯りが点くのを。
この間と違っている事は、それが何時なのかがわからないということ。
それでも、あたしは待つつもりでいた。
後ろめたさと、先生との関係を悪くしたくない気持ちと、そして何より、あたし自身の女の部分がその場に縛り付けていた。
先生の部屋ではないし、先生が来る確率もない。
それでも待つと決めたのは、あたし自身の賭けでもあった。
もし、先生がいたなら突き進む。
でも来なかったら、そしたら生徒に戻る。
月曜日、保健室に行って昼休みの呼び出しをすっぽかしたことを謝り、ただの生徒と保健医に戻る。
この気持ちはずっとあたしだけのモノとして、仕舞い込んでおく。
きっと、仕舞い込んでしまったら雨の日は憂鬱という気だるさを一生背負っていくんだと思う。
そんなことを考えていると、少しずつ身体が冷えていく感覚がしてくる。
6月といっても、夏真っ盛り程の気温はないし、かといって冬が過ぎた頃の過ぎし易い気温というわけでもない。
動けば湿度でじめじめした暑さがある。
でも何もしないで雨の中たっていると、足元や手先から次第に体温が奪われていく。
それでも赤い傘が視界に入ると、まだ平気、まだ頑張れる――その思い込みの根拠はどこから来るのか……あたしはそうやって自分を励まし、1時間、2時間とその場に立ち続けた。
時計を気にしなくなってどれくらいの時間が経過しただろう……マンションの入り口に一台の車が横付けされる。
出て来たのは赤い傘、そして車の中から誰かが降りている。
あの女性だろうか……先生とホテルに行った――やっぱりあたしはあの女の人には勝てない? 確かめもせず、赤い傘というだけで敗北感が漂う。
あたしだって赤い傘をさしているというのに、駆け寄る勇気すらない。
かといって、立ち去ることも出来ず立ち尽くすと、傘の中から見覚えのある後ろ姿が……
その後ろ姿は、何度か車の中を覗きこんでから傘を閉じて、それを返す。
持ち主は車から降りることなく走り去り、去る車を見送ってからマンションの中に入ろうとして、立ち止まる。
立ち止まると振り返り、視線が動いた。
完全にこちらを見ていると思った瞬間、雨の中を駆けよりあたしの腕を掴む。
「何をやっているんだ、おまえは」
次にくる言葉は帰れだと思い、身体が竦む。
掴まれた腕を振り払おうとしたけれど、男の人の力に適うはずもない。
「あの……」
「いいから、来い。制服姿でうろつかれる方が迷惑だ」
帰れと言われる覚悟をしたあたしは、一瞬拍子抜けになり身体の力が抜けていく。
引っ張られる力に逆らうことなく、あたしの足は先生の後について行っていた。
この間はじめて来た時と同じ経路で部屋に入ると、先生は真っ先にバスルームへと行きタオルを持ってくる。
そのうちのひとつをあたしへと放り投げた。
更にテッィシュの箱を手にあたしの前に立つ。
「なんだ、その品の無い口紅。おまえには似合わない。さっさと拭け」
ティッシュの箱をも押し付ける。
「似合わないって……あたしが子供だから?」
「……は?」
口紅を付けた時、違和感はあった。
見慣れたあたしの顔が、まるで別人のように鏡に映っている。
でも、だからって似合わないって言われるとは思ってなかった。
「あたしだって、女だよ? どうしてこの間の人はよくて、あたしはダメなの?」
「女の悦びも知らないガキが、一丁前に女気取りか? その口紅を付けて制服、どんなプレイだよ」
「……え?」
プレイ?
言っている意味がわからない。
制服を着て化粧をしている生徒なんて、うちの学校にもいるし珍しくはない。
今時、制服を着ている時はすっぴんで……なんて常識は古い。
「なんだ、知らないでしていたのか。だからおまえはガキだって言っている」
「ガキガキ言わないでよ。子供だって自覚はあるから」
「だったら、さっと身体を拭け。今、タクシーを呼んでやるから、それで帰れ」
「帰れって、ここまで入れてくれて帰らせるの? この間はバスルーム使わせてくれたのに?」
「俺の言いつけを守らず、無断でいなくなった本人が、それを言うのか? ああ、そうだった。おまえにはもうひとつ、いやふたつか。約束を破っているな。悪い子にはお仕置きが必要だと、思うだろう?」
お、お仕置き?
それってつまり、罰を与えるってこと?
「もしここが校内なら、妥当なところでトイレ掃除一週間。プリント数枚、反省文、校庭十周。それらのどれかが妥当だろうな。だが、ここは学校じゃない。俺の身内が個人的に借りている部屋だ。しかもおまえはガキのような思考発想しかしていないという自覚がまったくない。女として男の部屋に入るということはどういうことか、まず教えてやるのが先だろうな。が、そこで甘い蜜を覚えられては困る。二度と浅はかな考えが浮かばないよう、徹底的に躾ける必要がある。そういう意味でのお仕置きだ。意味、わかるか?」
つまりそれは、あたしの思いつく限りの『罰』とは違うということ?
「まったくわからないという顔をしているな、浅川。真っ赤な口紅つけて男の前に出るなんて……まだおまえには早いし、似合わねぇと言っているんだ。それとも、はっきり言ってやろうか? 言葉だけではわからないなら、身体に教えるだけだが?」
そう言って、ティッシュをあたしの唇に押し当てた。
何が何でも真っ赤な口紅を落とさせたいみたい。
でも、あたしは従わない。
だって、なんで他の女の人はよくてあたしは駄目なの?
高校生だから?
高校生だって、学校を一歩出ればただの女の人だよ……
恋もするし、したらその相手に見てもらいたいって思う。
その相手が真っ赤な口紅をつけていれば、それが好みなんだと思うじゃない。
誰だって、好きになった人の好みに合わせたいって思うじゃない。
そうすることで、自分を見てくれるなら、あたしの個性なんてその人の前ではなくたっていい。
「なんで、そんなことを言うの、先生」
「……は?」
「保健室ではそんな事は言わないのに」
「そりゃ、校医は仕事だからな。私情は挟まないさ。大人だし、仕事をするということはそういうことだ。それを職場以外にも求められるのははっきり言って迷惑でしかない」
「じゃあ、あたしの事も学校の外では生徒じゃなくて浅川美雨というひとりとして見てよ」
「……はあ、あのな浅川。おまえをひとりの人、女として見るということは、こういうことをされても文句は言えないってことだぞ? そんなにお仕置きをされたいのか? そういう趣向の持ち主なのか?」
後半、言っている意味がわからなくて、頭の中がグルグルとなる。
そんなあたしに先生がより近くに来て、顔が近づき……ああ、これからキスされるんだ、キスされるってこんな感じなんだって思った、その直後だった。
「キャッ……! やっ、先生?」
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