♯5

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♯5

 それはあたしの隙を突いた、一瞬の出来事だった。  キスをする時は目を閉じなきゃ……いつ誰がどういう意図でそんな定番を作り上げたのか、あたしもそうしなきゃいけないって思い込んでいた。  けど先生は目を閉じるどころか、キスをするつもりもなかったみたいで、グラリと身体の重心が前に引っ張られて、閉じた目を開けたあたしは、想定外の展開に思わず拒む声を発してしまう。  それでも先生はあたしを引っ張り続け、とある部屋へと入るなり放り投げる。 「ちょっと、先生?」  幸い、勢いが止まらず倒れ込んでしまった先はベッドのようで、身体の痛みはないけれど動揺は加速する。  ベッドの上に放り投げられ、先生はいつになく険しい表情をしているとなれば、あたし自身の身によくないことが起ころうとしている――ということくらい想像できる。  その……男と女がベッドの上でする事と言ったら、アレしかないし……  でもまさかね……校医が生徒を無理やりになんて……  そりゃ、あたしだって少しはそういう展開を期待していなかったわけじゃないけど、こんな荒々しくあたしの気持ちを完全に無視した展開は望んではいない。 「キス、されると思ったか? 残念だったな。大人の男と女はな、キスから始まるとは限らない。出会った瞬間、雄と雌になることだってある」 「やだ、先生。何を言って……」 「言っている意味がわからないか、浅川。それなのに真っ赤な口紅をして俺に会いに来るとは……やはりお仕置きだな」 「あの、やっ……やめて、先生。あたし、処女だもん。キスもまだの子供だもん」  先生の体重がベッドにかかり、微かに軋む音が耳に入る。  冗談だよね……  ただ怖がらせるだけの、そういうお仕置きよね?  言い聞かせるあたしと、危険と訴えるあたしがいて、その真ん中で本当のあたしは迷っている。  嫌われたくないから。  もし先生に嫌われてしまったら、雨がやまない日が多いこの時期、どうやって過ごせばいいの?  でも、先生の手が胸元に触れようとした瞬間、あたしははっきり拒む言葉を口にしていた。 「クッ……都合が悪くなると子供だという。子供扱いすれば大人だと言い張る。我儘だとは思わないか?」 「悪かったって思っているから、許して、先生」 「許す? 何に対して?」 「真っ赤な口紅、取るから。もう赤い傘もささないから。ここにも来ないから……」 「待てと言ったのに勝手に帰った件は? 来いと言ったのにすっぽかした件は?」 「……先生の言いつけ、聞くから」 「そうか? ここは学校じゃないんでね。やっぱり、浅川の身体で払ってもらおうか」 「無理よ……」 「なぜ? 処女だから? 俺は構わないが? おまえにとってもいい記念になるんじゃないか? 俺の事が好きなんだろう?」 「それは……ずるいよ、先生」 「ずるいって……そりゃ、浅川に言いたいね。覚えておくといい、男を煽ったツケは高くつくとな」  煽るって……そんなつもりなんてない。  あたしはただ、本当にただ、先生の好みに合わせて見たかっただけ。  真っ赤な口紅は違うの?  はじめてのキスは――ねっとりとして気持ち悪いものだったという記憶しかない。 ◆◇◆◇◆  なんだってこんな日にも雨が降るのよ……うんざりと憂鬱になるのは、あの頃からまったく変わっていない。 「浅川さん……よね? 久しぶり。覚えている?」  ホテル内にあるイベントスペースを1日貸し切ってのクラス会、高校を卒業した翌年の6月のある土曜日、まさか雨になるなんて思ってもいなかったから、つい行くと答えてしまったことを後悔。  入口までは向かったものの、気が乗らなくて帰ろうとしたところ、会場の中から声をかけられた。 「もしかして、睦さん?」 「もしかしなくても睦はるかよ。そんなに変わった?」 「なんかふくよかになったわね」 「はっきり言ってくれていいのよ、太ったって。でもね、いいの。このお腹の中には命が宿っているから」 「命って……結婚したの?」 「ええ。その報告も兼ての参加なのよ」  彼女に促され会場内に入るとタイミングよく主催をした人が仕切りはじめた。  どうでもいい挨拶が終わると、元担任の話が始まり……そして睦さんが呼ばれ結婚と妊娠の報告をすると、会場中が一気に盛り上がる。  相手の人は、高校三年の時に教育実習で来ていた先生で、あたしたちの何年か上の先輩でもあるみたい。  今は母校で教師をしていると言うから、なんていうか先生と生徒が結婚をしたと言ってもいいような。  先生と生徒が結婚――あの睦さんが……意外と思うと同時に羨ましいと思うあたしがいる。  なんであたしと卯月先生は上手くいかなかったんだろう。  あたしの何が駄目だったんだろう……  あんなキスをされてから、あたしはどんなキスをされても感じなくなったし、キスをする度に先生の事が脳裏に浮かぶし……おかげでもうすぐ二十歳だというのに処女のまま。  恋人が出来てもキスに無反応なあたしはフラれてばかり。  それもこれも全部雨のせい。  賑わう会場からひとりこっそりと後退り、距離ができてからみんなに背を向けた。  誰にも気づかれていないと思っていたけど―― 「待って、浅川さん。私、あなたに伝えたいことがあったの」  身重の睦さんが小走りで追いかけて来る。 「ちょっと睦さん、あなたその身体で走ったら……」  逃げるように去ったはずなのに、あたしの方から彼女に走り寄っていた。 「ありがとう、浅川さん。あなた、本当はとてもいい人なのよね。ただ、不器用なだけ」 「買いかぶり過ぎよ。雨が降れば保健室に逃げる。面倒だから、かったるいからと体育の授業はサボる。みんなの中のあたしの記憶って『浅川ってよく保健室に入り浸っていたよな』じゃない?」 「まあ、そうかもね。でも、私は違うの。あなたが一度だけ赤い傘さして歩いているのを見たことがある。その姿がとても印象的で。それで私も赤い傘を使うようにしたの。今の主人との出会いも赤い傘なのよ」  同じ赤い傘をさして、いい出会いをした人がいるのに、あたしは思いっきりフラれている。 「あの時、卯月先生に会いに行ったのよね?」 「……え?」 「ごめんなさい、卯月先生が突然学校を辞めたの、私のせいなの」 「睦さん? それはどういう?」 「あの辺りって、そこそこお金にゆとりがある人がセカンドハウスとして利用していたのよ」  そんなこと、先生も言っていたわ。 「実は私の母親もね……」 「そういえば、睦さんのお母さんて……」 「そうなの。女性社長をしていて、あのマンションをセカンドハウスとして使っていた。浅川さんを部屋に連れ込む卯月先生を目撃しちゃって」  睦さんが言うには、母親に聞かれて赤い傘をさして歩いていたあたしを目撃していたから、浅川さんかな……と軽い気持ちで答えたみたい。  そしたらそのまま学校に連絡が行って、何もなかったという事にして頂ければ自分が学校を辞めると言ったらしい、卯月先生が。 「あの時、私がもっと注意深く母の話を聞いていたら、先生が突然辞めることはなかったと思う」 「待って、睦さん。そうだとしても、きっと結果は同じだったと思うよ。相手の生徒は誰かと校内あげて探したと思うから。先生と生徒の恋は叶わないように出来ているのよ。その点、睦さんは運がよかったのよ」  そうかもしれないと小声で答えてから、あたしにメモを手渡す。 「罪滅ぼしってことでもないんだけど、探してみたの。あなたがここに来るって知ったから。会いに行ってみたら?」  メモに書かれていたのは、住所。 「なんで、今更。あたしは、フラれたのよ。あの日、赤い傘さして真っ赤な口紅つけて、先生を待ったのに」 「真っ赤な口紅?」 「ええ、そうよ。先生がお金で女の人を買っていたわ。赤い傘をさして真っ赤な口紅をした女性。先生の好みなんだと思って」 「浅川さん、それは……先生に同情するわ。あなた、知らないの?」 「なにを?」 「女性が真っ赤な口紅をして男の人の前に姿を見せる、その意味」 「睦さんは知っているの?」 「ええ、まあ」  少し言葉を詰まらせたものの、彼女は誰にも言わないでと前置きをして、あたしの耳元で囁いた。 ◆◇◆◇◆  あれから、あたしは少し似合うようになったかな、真っ赤な口紅。  でも敢えてその色は付けないでおこう。  真っ赤な口紅の意味を知った今、それをつけて先生に会う度胸はないから。  赤い傘に買い替え、メモに書かれた住所へと急ぐ。  意外にもあたしの実家と程近い、二階建てのアパートだったのには驚いた。  駆け上がったその先に『卯月』という表札がある。  この向こうに先生がいる。  再会したら、あたしは謝らなきゃいけないのかな。  それとも、先生に文句を言う?  二十歳目前で処女のままなのは、先生の責任だって……  頭の中でぐるぐると思いが駆け巡り、呼び鈴を押す指先の震えが止まらない。  どうしよう、出直そうか。  雨の日の再会なんて、きっとよくないことがあるに決まっている。  でも、いつ晴れるかなんて、この梅雨の季節はわからない。  今を逃したらもうないかもしれない。  こういうのって、勢いが必要だから。  呼吸をして息を整え、いざ呼び鈴を――と思った直後、階段を上ってくる足音がして、あたしの真後ろでその足音が止まった。 「まさかと思うが、その赤い傘。浅川美雨か?」  とても懐かしい声。  だけどその声は卯月先生のものではなく、白衣を脱ぎ、街で女の人を買い、ホテルで性欲を満たす男の声だった。  だからかな、振り返った先に立つ卯月賢哉を見ても、あまりがっかりはしなかった。  むしろ、そういう男の姿であたしの前に現れてくれて、ホッとしている。 「どうしてあたしだとわかったの? 赤い傘を持つ女性は、他にもいるでしょう?」 「わざわざ赤い傘で俺の前に来るのは、おまえくらいだからな」 「……え? どういう意味?」 「俺が雨の日、赤い傘に真っ赤な口紅をつけた女を抱くのはな、俺の中のトラウマを犯す為だ。そこにあるのは憎しみしかない」 「好みの女性じゃなかったの?」 「ああ。どちらかといえば、赤い傘と真っ赤な口紅は嫌いだ」 「だから、あたしに似合っていないって。あんな酷いキスをしたの?」 「酷いキス? 俺の舌に感じていた処女が、何を言っている。もしかして、あのキスのせいで、普通のキスが感じなくなったか? だったら、俺にも少しは責任あるな。処女相手にするキスじゃなかった」 「……そういう話をしに来たんじゃないのに。どうして、あたしたちはこうなんだろう」 「あたしたち? もしかして、まだ俺に未練があるのか? だったらやめておけ。不幸になる」 「どうして、そう決めつけるの? それを決めるのはあたしよ」 「わかるんだよ。俺とおまえは似すぎている。俺も、雨は苦手でな。おまえ以上に憂鬱なんだよ。そんな中、おまえが保健室にやってくる。ウザいで済む限度を超えていた」 「あたしのこと、嫌い?」 「好き、嫌いの問題じゃないな。俺自身を見ているようで……わかっちゃいるんだがな。おまえに当たっても仕方がないと。だから、その溜め込んだものを出すには、対象が必要だった」 「あたしのせい? お金で女の人を買うのは? そういえば、あたしのせいで学校、クビになったって」 「女を買ったのは俺の意思と欲望で、おまえは関係ない。仕事に不満はつきものだ。学校を辞めたのは偶然たまたまだ。あの件がなくても、1学期終わり、ないし2学期の途中くらいには辞めるつもりでいた」  そう言った後、それは違うと自分の発言を否定、言い直した。 「きっかけが欲しくて、おまえを利用した」 「嘘……そうやって、またあたしを遠ざけるつもり? もう生徒じゃないよ、あたし。卯月先生だって……」 「俺ももう先生じゃない。ただの卯月賢哉だ」 「だったら……」 「ごめんだな。浅川だけは無理だ」 「どうして?」 「古傷を舐めあって付き合ったその先に何がある?」 「辛さや痛みが分かり合える、いいことじゃない」 「その場しのぎにしかならないな、それじゃ。先がないと言っている。俺は、立ち止まっていたくない」 「あたしだって、雨の日になると変わらない自分が嫌だよ? だから先生がいなくなってから、保健室に行かないで教室に行こうって努力した。何日か続けると積み重なってギブアップしちゃうんだけど」 「浅川……」 「今では、雨の日でも外に出ようって心がけている。今日はたまたま雨と重なっただけだけど。憂鬱だったよ、今こうして先生と会うまでは。ねえ、先生。先生に言われたこと守れなかった件のお仕置き、あれだけじゃないよね?」 「は?」 「しよっか、もっと大人的なお仕置き。雨の日だけ」 「浅川、おまえ……」 「本当はね、あのキスが忘れられないの。あれ以上のキスじゃないと、感じないの。おかげで、まだ処女よ。付き合った男性は片手の数くらいいるのに、笑っちゃうでしょう?」 「本気か? おまえ、俺のトラウマを知ったら軽蔑するに決まっている。あの女たちは『金』という対価と交換に付き合ってくれていた。おまえは、俺と言う男だけでいいのか?」 「うん、いいの。先生にはね、普通じゃ感じなくなった代償、払って欲しいし、責任とって欲しいし。そういう点でも利害一致していると思うけどな」 「そこに、愛情がなくてもか?」 「愛情なら、貰ったから」 「え?」 「あたしのこと、庇ってくれた。理由はどうであれ、先生が急に学校を辞めた理由、睦さんに聞くまで知らなかったから」 「仕事上の体面だけだったんだが」 「それが本音でも、あたしにとっては情をかけてもらったわけだし。それにね、真っ赤な口紅はもうつけないから。その、知らなかった事とはいえ、あれはごめんなさい」 「……今頃知ったのか」 「えっと、ついさっき。睦さんに教えてもらったの」 「睦に? そういえば、以前睦を繁華街で見かけたな」  彼女を羨ましいと思った自分を恥じたのは少し前のこと。  生徒と先生の恋が苦難なしに実ったわけじゃないって知ったのは――  ふたりが本気で付き合いはじめたのは、あたしたちが卒業する少し前からで、卒業したら結婚を前提とした付き合いをしたいと挨拶に行く予定だったんだって。  でも睦さんの両親が反対をして、家を出た彼女はひとり暮らしをする為にバイトをはじめた……夜の繁華街で。  薄暗い店内で自分を主張するには、鮮やかなドレスと化粧は必須。  真っ赤な口紅をつけ、下心ある男性の相手をする。  誘惑の口紅――それが真っ赤な口紅に隠された意味。  先生が相手の女性にそれをさせていたのは、駅で待ち合わせる時の目印にもなっていた。 「そうなんだよね。簡単に手に入れられるわけじゃないんだよね、恋とか幸せって」  そんな簡単な事すらわかっていなかったあたしは、当然ガキ以下で、子ども扱いされても仕方がない。  けど、なぜ先生も驚いた顔をしているのか、あたしにはわからなかったけれど、抱きしめられた温もりの意味だけは理解できた。  受け入れてくれたんだってこと。  先生のトラウマってなんだろう?  それを話してくれたのは、肌を重ねること数回過ぎた頃だった。  幼い頃両親が離婚、先生を引き取った母親は手っ取り早くお金を稼ぐ為に水商売の世界に身を投じていく。  学校から帰ると母親が出迎えてくれるのは嬉しかったけれど、派手な服を着て厚化粧して、最後に真っ赤な口紅をつける母親の姿が嫌いだった。  中学生になった頃、興味本位で行った夜の繁華街で母親の姿を見てしまう。  そこにいたのは、母親の姿ではなく男を漁る女の姿だった。 「雨が降ると赤い傘さして、真っ赤な口紅つけて出かける母親を嫌悪する反面、母親の女の部分に興味もあった。産んでくれた母親を女として興味持った事に嫌悪した」  その時の感覚は記憶となって残り、十数年経過しても雨が降ると記憶が鮮明に戻るみたい。  それが限界に達した時、そういう格好をさせた女性を買う。 「気持ち悪くないのか?」 「なにが?」 「母親を女として興味を持った俺を」 「思わないよ。だってね、あたしの母も赤い傘さして真っ赤な口紅をつけて父を迎えに行く時は女の顔をしていたと思う。凄い嬉しそうだった。あれって、『今夜、しましょうね』て合図だったのかな。なんて思ったり。あたしね、そんな母に憧れていたから。無意識に大人の女を見ていたのかもしれない。だから、気持ち悪くないよ?」 「……悪かったな」 「何が?」 「ガキだって昔言ったこと。おまえ、俺より精神面では大人だな」 「ありがと。身体を大人の女にしてくれたのは、先生だよ?」 「……おまえ、そういうことを真顔で言うな。そういうところはガキだな」 「じゃあ、大人の女性はどう受け答えするの? 先生が教えてよ」 「おまえが、その先生と呼ぶのを止めたらな。言えよ、賢哉って」 「え? いいよ。別に。先生て響きが好きだから。それより、しようよ。雨、止みそうにないし。あたし、雨の中、帰りたくない」  やまない雨が昔は好きだった。  だけど、その雨が嫌いになって……  でも今は、好きとか嫌いというよりは、やまない雨に感謝している。  いつまでもやなまいで欲しい。  やまない間だけ、あたしたちは全てを曝け出して、互いを求め続けられるから。  完結
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