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一週間後、新年度の授業が始まった。
俺は、定期券が切れるのと同時に電車通学をやめた。もともと電車で通学すると、三本の電車を二駅、二駅、一駅で乗り継いでいかなければならず、かなり遠回りだった。うちから湘安高校までは直線距離でおよそ七、八キロで、自転車で約三十分だ。自転車通学できない距離ではない。
やはり、偶然でもあいつらと顔を合わせたくなかった。
クラス替えで、俺は進、楓、茜の全員と違うクラスになった。一学年九クラスもあるので、確率的には珍しくはないが、俺は複雑な感情だった。
教室ではそこそこ仲の良い友達はいたが、やはり一人でいることが増えた。今までは近くの席にいたあいつらがいない。その孤独は思っていたよりも辛い。今日も俺は教室の右後ろの席で一人で弁当を食べ、すぐに席を立つ。特にやることがないので、図書館に向かい、漫画を手に取る。別に一人でいることは苦ではないが、何かが物足りない。そんな感覚だった。
「渡邊、ここの答えは?」
「えっ……」
ついついぼーっとしていた俺は答えられなかった。ここにいつも助けてくれた友達はいない。
「……すみません、分かりません」
放課後、俺は今日も体育館に向かわずに、自転車置き場へ歩み出す。
「なんか、つまんねぇな、学校……」
俺は自転車置き場に向かう途中で足を止めた。建物の陰から出て来た瞬間、金色の長い髪が太陽に照らされて一気に煌めく。
「楓か……」
「なんで部活に来ないのですか?」
その声色はどこか冷たく、重い。
「言っただろ? 足の状態が良くないんだ」
「足が痛くても、できる練習はたくさんあります。それに……。本当は痛くなんかないでしょう?」
俺は無言で頭を掻いた。ここで言い争うのは分が悪そうだと判断し、俺は立ち去ろうと楓の横を通り抜けようとする。
「逃げるのですか?」
今日の楓は挑発的だった。いつもの楓らしくない。
「逃げてない」
「逃げてます。自分から、現状から、航は逃げています」
楓は震える手をもう片方の手で強く握りしめて、振り絞るように声を出していく。
「航のスランプの原因は、努力することをやめたからです。今の航は、自分の意図に肉体が付いていっていないだけです。ただの……、実力不足です」
俺は歯を食いしばる。拳にもいつの間にか力が入っていた。
「前までの航はもっと努力していました。だから動けた。だから強かった。でも、今の航はどうですか?」
楓の一言一言が脳に、心臓に響く。
「朝練には来ない。放課後の練習は三十分前には終わっていましたよね。航のフットワークが一段と向上したのは去年の秋から冬にかけてです。その時は、走り込みなどしていたのではありませんか?」
もう、いい。
「初詣の時に言っていましたよね、現状維持が目標だと。努力しないと、人は衰退していくのです。それに周りは努力しています。努力しないのに、現状維持などできるわけがないではありませんか」
もう、やめてくれ。
「世界はそんなに甘くありません」
お前の言っていることは全て真実だから。
そうだ、自分でもどこかで分かっていた。努力を怠ったことによる負債が少しずつ積み重なっていき、水を溜めすぎたダムのように決壊した。それなりのセンスで誤魔化してきたものが、誤魔化しきれなくなったのだ。
だけど、この時の俺に余裕はなかった。全てを言い当てられたことによる焦り、恥ずかしさを外に吐き出す以外の方法が見つからなかった。
「……うるせえよ。お前に、俺の何が分かるっていうんだよ……。才能を持ってる奴に、努力しろなんて言われたくねぇよ!」
楓の方がびくっと震えた。今にも泣き出しそうなその瞳に居た堪れなくなり、俺は目を逸らした。
ただの八つ当たりだということは分かっていた。自分の努力不足を棚にあげて、楓を傷つけている。だが、この時の俺にはこうすることしかできなかった。もう、元通りの関係には戻れないかもしれないと感じながらも、思い付く最低の言葉を止めることができなかった。
「俺に、もう関わらないでくれよ……」
俺は……最低だ。
奥歯を噛み締めながら、その場を立ち去った。
「私、もうわからないの……」
背後に歩み寄って来た進に、楓は灰色の薄暗い空を仰いで呟いた。
「ごめん、僕が航に強く言うことができなかったばかりに、君にこんなに辛い役目を背負わせてしまった。『努力しろ』の一言が言えなかった。僕は、最低だ……」
楓は航がいなくなった途端に、糸が切れたかのように涙が溢れていた。
「どうすれば、航に届いたのかな」
楓はポロポロと落ちる涙を止めることができない。そして進も、言葉を発することができなかった。
「……私じゃ、航を助けることができないよ」
四月十日、進が春の県大会男子個人フルーレで優勝を果たし、楓が女子個人フルーレで優勝した。これで進と楓は関東大会出場を決めた。その結果を知ったのは情けないことにWEB上でのことだ。
俺はこの大会に出場しなかった。それどころか、部内戦から約二週間、一度も部活に出ていない。
結局俺はあの二人とは住む世界が違ったのだ。
俺はどうしようもない無力感に覆われて、半ば自暴自棄になっていた。世界が真っ黒に染まったような感覚に包まれていた。一日一日が長く、永遠のように感じられて、俺は考えることを放棄した。
翌週の四月十七日。団体戦が行われ、女子は優勝した。しかし、男子は進が三試合全勝するも、残る六試合で二勝を挙げられず、まさかの初戦敗退。湘安高校は関東大会出場を逃した。
その結果に俺は何の感情も湧かなかった。それも当然だ。考えることを放棄したのだから。
しかし、翌週の金曜日、俺は一通のメールを受け取る。
「明日、四月二十三日の関東大会、女子個人フルーレの試合が善行であります。お願いだから観に来て下さい」
その文面は差出人の欄が間違えているのではないかと思うほどいつもと異なっていた。
そこには『宮崎茜』の文字があった。
調べてみると、茜も四位でギリギリ関東大会出場を決めていたらしい。
俺は奥歯が噛み締め、考えなくてもいいように、スマホの電源を消した。
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