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全ての音がおぼろげに聞こえる。雨は世界を遠ざける。
激しくもなく、霧のようでもない。地面に当る音は静かだが確かに聞こえ、傘を打つリズムは一定。気がつけば、湿った地面を踏む音は、一つだけになっていた。
長靴をはいた少女、ゆかりは、周りに誰もいないことに気がつかずに、紫陽花を追ってずんずん進む。何処までも続く紫陽花の先には何があるのか、気になって仕方がなかった。
ゆかりは紫陽花が好きだった。梅雨時に咲く淡い色を見るのが、物心ついたときからの楽しみだった。十歳になり、友人たちが梅雨時を嫌う中、彼女だけは今日も意気揚々と、紫陽花の名所のお寺に足を向けた。
いつも通り、紫陽花が両側に咲く階段を上っていた時に、知らない道を見つけた。他の人は気が付いていないことに、ゆかりは気が付いていない。きらきらと光って見えるその道にも、紫陽花が咲いている。躊躇いなくゆかりは足を踏み出した。
何処までも続いているようなその道を、迷いなく歩く。傘と地面と紫陽花の葉を打つ雨の音に、いつしか固い音が混じり始めたことにゆかりは気づいて、ようやく辺りを見回した。ようやく自分が一人だということに気がついた。
しかし不安になる前に、固い音の正体を見つけた。
紫陽花の花弁に当る雨の粒。それが紫陽花の色を吸って、淡い色の石となって落ちていく。地面に触れると、まるで水のように散り散りに割れて、その時の音は高く、飛び散る粒はきらびやかで、まるで宝石のようだった。
見渡せば、青や白、ピンクの割れた宝石が、砂のように地面に敷き詰められていた。おもわず息を飲む。目を見開き、口元は笑みを隠すことができなくなっている。
歩けばガラスを踏むような音。遠くは霞んで見えなくて、この前本で読んだ楽園という言葉を、ゆかりは思い出していた。
お母さんにも教えないと。ゆかりがすぐにそう思ったのは、ゆかりの紫陽花好きは母譲りだから。
ここを見せたら、きっと喜ぶ。逸る気持ちを抑えて、ゆっくりと引き返す。早く教えたい気持ちと、もっとここにいたい気持ちが小さな体の中でぶつかりあって、不思議な気分だった。
そのせいなのか、いったいどうやって家に帰ってきたのか、ゆかりは思いだせないでいた。だけど入口はわかってる。とにかく早く教えないと。
玄関のドアを開け、靴も揃えず脱ぎ散らかす。
「お母さん!!」
リビングに駆け込むと、ゆかりの母は眠そうな目をゆかりに向け、ゆるみきった笑みを浮かべた。
「あー。おかえりー、ゆかりー」
「お母さんすごいのみつけた!」
「どんなのかなぁ?」
「紫陽花からね、宝石が出るの!紫陽花に当った雨が宝石になるの!」
「へーそりゃびっくりだぁ」
「本当だよ! 本当なんだよ!」
「そっかぁ。秘密の場所ね。ふふふ」
信じてもらえてない。ゆかりはそう感じた。
だからまたあそこに向かって走り出す。傘もささずに雨に打たれて、あの紫陽花の宝石が見られる場所へ。もう一度入れるかどうかなんて疑いもせずに、そのおかげで、当然のようにゆかりはまたあの場所に立っていた。
どうやったら信じてもらえるか、ゆかりはしかし考えていなかった。とりあえず大きめの破片に触れてみたけど、触れただけで崩れてしまう。掬いあげてこれを持っていこうかと思ったけど、きれいな砂ね、くらいしか言ってくれなさそうで、肩を落とす。掌の破片がまたたきながら落ちた。
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