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「どうしたんだい、お嬢さん」
急に、そんな声がした。
振り返ると、和服に帽子をかぶった男がいた。心底不思議そうにゆかりを見つめている。
「おじさん、誰?」
「おじさんは、そうだなぁ、わかりやすく言うと、なんと言ったか。そう、警備員さんだ」
「ここを守ってるの?」
「そんなところだよ」
「ふうん」
ゆかりは今、よくわからないおじさんに構ってる暇はなかった。どうしても、この場所をお母さんに見せたい。壊さずにこの宝石を持つ方法はないか、濡れた前髪をどけながら、必死ににらめっこしている。
そこではたと気がついた。連れてくれば良かったんだと。だけど、すぐにそれが浮かばなかったのは、どうしてなんだろう。そもそもここを見せてあげようと思っていたはずなのに。
気づいた今もゆかりは動こうとしていない。ここにはすぐに走り出してきたのに。
「おじさんも訊いて良いかい?」
ゆかりの思考を邪魔するように、男が話しかける。手にはいつの間にか、煙管を持っていた。
ゆかりは顔を上げずに返事をする。
「なぁに?」
「どうして悲しそうな顔をしているんだい?」
「お母さんがね、信じてくれなかったの」
「ここのことを?」
「うん。だから、どうにか信じてもらおうと思って、この宝石を持っていこうって思ったの」
「なるほど。だが残念なことに、これは外に持ち出すと消えてしまうんだ」
顔を上げて男を見ると、器用に煙を輪にして吐きだしていた。雨に溶けずに飛んでいく。
「砕けちゃったこの砂も?」
「そうさ」
「どうして?」
「ここはね、世界の秘密の一つなんだ」
「世界の秘密?」
「そう。だから、誰に行っても信じてもらえないし、知っている人も、外では知らないふりをするんだ」
「どうして? こんなに素敵な場所なのに」
「ここはね、子供しか入れないんだ。それも、綺麗な心の子供だけね」
「おじさん入ってるじゃない」
「おじさんは警備員さんだからね」
「そっか」
うなづきながらも、納得している自分に納得できないという気持ち悪い感覚に、ゆかりは自然とため息を漏らしていた。存外大きい溜息になって、自分で驚いた。
漏れ出したような笑い声の主を、ゆかりは睨んだ。わざとらしく口を抑える仕草に、ちょっと頬が緩む。
「君もなんとなくわかっていたんじゃないかい?」
「え?」
「お母さん、連れてこようとはしなかったんだろう?」
「そうなの。それが不思議」
「そういうお呪いがしてあるからさ」
「どういうおまじない?」
「誰かを連れてきたら、二度と入れなくなるお呪い」
「そんな」
「それくらい、ここは大切なんだよ。誰かを嘘つきにしてでも守らなきゃいけない」
「どうして?」
「秘密」
「ケチ」
頬を膨らませる紫を見て、男は肩を揺らして漏れ出る笑い声をどうにか抑える。そんな気遣いも知らずに、やっぱり納得してしまってる自分が嫌で、でもやっぱり、おじさんの言うことは間違ってないように思えて、ゆかりはもう一度、溜息を漏らした。今度はわざと大きく。
「お母さんに、見せてあげたかったな」
「もしかしたら、お母さんは知ってるかもしれないよ?」
「どうして?」
ゆかりの不満げな視線に、男は片目をつむって見せた。
「君のお母さんがここを知ってるかどうかは、尋ねてみればいいだけだよ」
「きいたもん」
「一言だけでいいんだ。こう言ってごらん」
耳打ちするために近づいてきた男から、紫陽花の匂いがした。
ゆかりの胸の内に溜まっていた何かが、雨に流されていったような気がした。
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