三章 正体と後悔

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 四日後、俺は退院を許された。元々目覚めた時から体に痛みはなかったため、大事を取った感じだ。  俺は無気力感に苛まれながら、病院を出た。前線が停滞しているらしく、目覚めてからずっと雨は降り止まない。  怪我をする直前の記憶がなんとも曖昧だ。だが、愛香が最後に呟いた『いちじかん』という言葉。あと少しで全てが繋がりそうな予感がした。  俺は自然と電車に乗っていた。降りる駅は高校の最寄駅、藤沢本町駅。時間は夕方五時だが、日曜日ということもあり学生の姿は少ない。  そう言えば今日は予選の三回戦だったはずだ。試合には勝っただろうか。いや、この時間になっても連絡がないということは……。俺は傘を片手に、とぼとぼと歩を進める。  十五分ほど歩き、高校の裏へ。皇大神宮の裏手の入り口にある階段に着いた。俺と愛香が落ちた階段。『雨の日は地面が滑るので注意』と書かれた綺麗な看板が新しく設置されている。  そこを通り過ぎて本殿へ。朱色で塗られた外観に金の装飾が煌めいている。俺は財布に入っていた小銭を全部賽銭箱に放り投げた。  思考はまとまらなかった。  ただ、手を合わせ、祈る。  強く、祈る。  愛香、お前はどうして。  お前のことが分からないよ。  お前のことを知りたい。  その瞬間、稲妻に打たれたような感覚が走った。  愛香のことが分かるもの。あるじゃないか。過去、愛香がどんなことを考えていたのか。それを分かるものが一つだけある。  俺は考えるよりも先に走り出していた。  電車に乗り、家の方へ戻る。電車の中で待っているだけの時間がむず痒い。  幸い電車の乗り継ぎは良かった。家の最寄駅から全力で駆け出す。  足を止めたのは、愛香の家の前だ。インターホンを押すと、愛香の母、美奈子がドアを開けた。表情からは憔悴した様子が見て取れる。 「愛香の部屋に入っても良いですか?」  そう告げると、美奈子は気丈な笑顔で「もちろん」と答えた。  愛香の部屋。綺麗に整頓され、女子らしい雑貨が数多く並んでいる。そしてやはり石鹸の香りが部屋を包んでいた。  俺は真っ直ぐに本棚に向かった。そこにあるのは、何十冊もの日記だ。すぐ隣の勉強机の上には、一番綺麗な日記が置いてあった。日付は二〇十九年五月~と書いてある。俺はそれを手に取り、決意を固めてページをめくった。  五月一日水曜日  翔に誕生日プレゼントを渡した。スマホカバーがへたってきたから新しいのが欲しいって言ってたけど、趣味に合ったものだったかな。渡すとき、変な顔してなかったかな。普通の幼馴染として渡せたかな。あ~もう思い出したら恥ずかしくなってきた!  五月二日木曜日  スマホカバー使ってくれてた! それだけなのに、すっごい嬉しい! 頑張って選んで良かった~! こんな小さな幸せが私にとっての宝物。書いてて恥ずかしくなってきた!  五月三日金曜日  最後の大会、もうあさってなんだ。早いなあ。もしかしたらそれが最後になるかもしれない。ってそんなこと言ってちゃダメだよね。絶対勝つ。  五月四日土曜日  翔と話したら少し気持ちが楽になった。そうだよね。明日は自分ができることをやろう。  五月五日日曜日  負けちゃった。悔しいけど、頑張った。自分にやれることはできた。バレーは一人でできないから仕方ない。丸二年、辛いこともあったけど、本当に楽しかったなぁ。  翔の試合も負けちゃったみたい。っていうかお母さん、娘の引退試合観に来ないで翔の試合に行ってるし!  丁寧な読みやすい字で書いてある。俺は喉の奥がぐっと締め付けられるのを感じながら、次のページを開き先を読み進める。京都でのキャンパスツアーは五月十六日だ。  五月十六日木曜日  翔が階段から落ちて怪我をした。 「はっ?」  俺は目を見開いて、その一文を凝視した。だが、何度見直してもそこには『翔』という文字がある。だが、本当に怪我をしたのは哲哉のはずだ。いや、哲哉の怪我は俺が回避させたから、実際には誰も怪我をしていないはずだ。  それ以降の文章に全てが記されていた。  五月十六日木曜日  翔が階段から落ちて怪我をした。  哲哉と口論になって歩道橋の階段から落ちたんだって。口論の理由は野球のことと、夏樹ちゃんのことらしい。それ以上は話してくれなかった。翔はもう夏の大会は出られない。私はすごく悔しい。翔が一生懸命努力してたのを知ってたから。でも、翔はこれでいいんだって。  その次の一文で、俺は再び驚愕した。 『だから私は、タイムリープを使った』  愛香が、タイムリープを使った? タイムリープを使えたのは俺だけじゃなかった?  心拍数が跳ね上がるのを感じる。脳が限界まで回転しても、理解をすることは叶わない。  愛香が階段を落ちる際に呟いた『いちじかん』は、タイムリープを使うための『一時間』だったのか。だが、タイムリープは集中した状態でないと無理だ。だから、タイムリープは発動しなかった。  いや、でも、おかしい。  そもそも俺が怪我をしたところで、俺がタイムリープを使えば良いだけだ。なぜ、愛香が使う必要がある。  その時、記憶の奔流が頭の中に流れてきた。これは同じタイムリープ能力者ゆえか、それともただの妄想かデジャヴかは分からない。 『お前はいつだって俺の欲しいものを奪っていく。エースの座だって、夏樹だって! なんなんだよ! 俺はお前に何も勝てない! 俺の方が球自体は良いってスカウトは言うけど、結局エースはお前で、俺はずっと二番手なんだ!』  そんな哲哉の悲痛な叫びが聞こえたような気がした。  そうか。能力がありながらもずっと二番手であることに、哲哉はしこりを持ち続けていたのか。能力が低くも結果を残す俺に、能力が高いが結果が残せない哲哉。俺のタイムリープという能力が生み出した矛盾。それが口論の原因。夏樹のことは完全に勘違いだが。  それを聞いた俺は一体どうするだろうか。もしかしたら、今までの報いだと思うかもしれない。今まで自分のためにタイムリープを使ってきた代償。 『なんとか哲哉を説得しようと思ったんだけど、ダメだったよ。何度戻っても、哲哉の気持ちは変わらなかった。でも、最後に哲哉がバランスを崩して階段から落ちた。そうしたら、翔がいたの。どうしてだろう。全然分からないよ」  まだその日の日記には続きがあった。ここからは文字が殴り書きのように少し荒々しい。 『ってか翔、容赦無く人のこと殴ってくるんだけど! ありえなくない⁉︎ タイムリープ使っても痛いものは痛いのにさ! 絶対私のこと男だと思ってたでしょ! ちょっと胸が小さいからって馬鹿にしてー! ああもう、思い出したらもっとむかついてきたー!』  そうだ。京都で俺は黒ずくめと殴り合いの喧嘩をした。俺の攻撃は当たらず、黒ずくめの攻撃だけが当たっていたが、それを俺はタイムリープでなかったことにした。その時、愛香もタイムリープを使い、同じことをしていた。だからいくら攻撃しても当たらなかったのだ。だが、実際は愛香のタイムリープで戻っていただけで、本当は俺の攻撃は当たっている。つまり、俺は愛香をタコ殴りにしていた。  サーっと血の気が引いていくのを感じる。確かに黒ずくめは身長が高かったし、完全に男だと勘違いしていた。だから、手加減なんかしていない。  その日の日記は、優しい字でこう締めくくられていた。 『でも、翔を助けられて本当に良かった』  五月十八日土曜日  また翔が怪我をした。やっぱり、この前は問題を先送りにしただけだったみたい。でも、あと少し。哲哉だって本心から翔を恨んでいるわけじゃないと思うんだ。ただ、自分の不甲斐なさのやりどころに困っているっていうか、まあそんな感じ。二人が野球部を引退すれば、きっと元通りの関係に戻れると思う。だから、私が頑張る。絶対に翔を守る。  五月十八日は哲哉と一緒に皇大神宮に行った日だ。哲哉と話している途中に黒ずくめが現れて、その日は何もしないで姿を消した。あれは哲哉に対する牽制だったということか。  五月二十六日日曜日  もう哲哉も諦めてくれるかと思ったんだけど。思っていたよりも根が深い問題だったみたい。甲子園予選二回戦、ここでも哲哉は翔に怪我をさせようとした。しかも、バットケースを二階から落とすなんて。ちょっと本気で怒ったよ。けいべつした。やっぱり私が哲哉を……。でも、きっと翔はそんなこと望んでいないんだよね。だから、我慢!  試合には勝って本当に良かった! しかも、翔にメールで呼び出されちゃった! なんのことだろう。どきどきして眠れないよ~。  そこで日記は途絶えていた。それは当然だ。翌日、俺に呼び出された愛香は、足を滑らせてたった今でも意識を取り戻していないのだから。  いつの間にか俺の日記を握る手に力がこもっていた。  俺はずっと愛香に守られていたんだ。 「なんで……、なんでだよ……」  不思議とそこに哲哉に対する憤怒は存在しなかった。あったのは、愛香に対する感謝と、気付けなかった自分に対する失望だけだ。 「戻らなきゃ……」  翔はぐっと拳を握りしめる。 「二十四時間!」  鋭い激痛が心臓を突き刺す。景色は一瞬で変わっていた。場所は病室、真っ白な壁に囲まれてベッドの上に寝ていた。相変わらず外は雨が降り続いている。 「くそっ!」  歯を食いしばり、再び念じる。 「二十四時間!」  一層激しい痛みに心臓を握りつぶされるような感覚を得る。 「はあっ! はあっ! はあっ!」  激しい動悸が止まらない。今までに感じたことがないような激痛だ。いくらベッドの布団で悶えても、痛みは一向に回復しない。 「二十四時間!」  意識が飛びそうになるのを必死に堪える。もはや体の感覚はなくなっていた。 「二十四時間……」  だが、時間は戻らなかった。 「なんでだよ……」  声は掠れてほとんど出ていなかった。強い怒りの感情が心を支配した。自分への、忿怒。 「戻れよ!」  止めどなく涙が溢れてくる。 「頼むから……、戻れよっ……」  あと四日。ここまでで戻ることができたのは三日。痛みは際限なく増し、更に途方もない痛みが俺を待っている。 「クソッ! クソッ!」  病室のベッドの上でうつぶせになって悶え続けていた俺は、ふと顔を上げた。視界に入ったのは、自分のスマートフォン。愛香が誕生日にプレゼントしてくれた、紺色の手帳型スマホカバーだ。 「…………絶対に、戻るんだ……」  それは誓い。そして、己への自戒。  愛香のバレー部譲りの鋭い平手打ち。その痛みが、今はとても愛おしい。 「(もう一度タイムリープをすれば、俺は多分耐えられない)」  それは翔の体が自然と理解していたこと。死ぬか、それとも体が動かなくなるか。 「(でも、行かなきゃ)」 「(愛香に会わないと)」 「(愛香がいない未来なんか、何の意味も無いだろ!)」  翔の口角がすっと上がった。それはヤケになっただけかもしれない。だが、翔の心境はひどく穏やかになっていた。 「(今、会いにいくよ、愛香)」 「タイムリープ・九十六時間!」    * * *  目の前にいたのは愛香。だが、その瞬間に視界が大きく揺れた。翔は声にならない悲鳴を上げ、地面に突っ伏す。雨に濡れた地面が冷たくて、少しだけ心地良かった。驚き、駆け寄る愛香を前にして、翔は笑って呟いた。 「愛香……。ありがとうな」  そして、翔の世界は暗転した。
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