二章 跳躍と困惑

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 次の週の木曜日、俺は京都駅前に立っていた。ぐーっと大きく伸びをして長旅のコリをほぐす。隣の哲哉はふぁ~っとだらしのないあくびをし、愛香は友人たちと楽しげに談笑をしている。  俺ら湘安高校三年生は、一泊二日で大学見学ツアーに来ている。一日目は京都大学、二日目は大阪大学という偏差値の高い有名大学へ行き、大学受験に向けたモチベーションを上げようという意味合いがある。  俺には部活をしたいという気持ちもあったが、大学見学も同じくらい興味をそそられていた。そわそわする気持ちを抑えながら、用意されたバスに乗り込む。  繁華街から少し離れた古都の風情を残したキャンパスの環境を堪能し、学食のメニューの数の多さには驚かされた。京都大学にいるだけで、自分まで頭が良くなったように感じるから不思議である。様々な刺激を受けた一日に大いに満足して、午後六時ごろにホテルに到着した。  部屋は二人一組。ペアは自由に決められたので哲哉と一緒だ。ビュッフェ形式の夕食を済ませ、今は部屋でダラダラしているところだ。 「いや~疲れたな~」  哲哉の言葉に首肯する。普段厳しい野球の練習をこなしている二人にとっても、旅の疲れというものはまるで別物だ。ベットで仰向けになり、天井を見つめながら呟く。 「旅行らしい旅行なんていつ以来だろう」 「いや、マジで」  それだけ野球に懸けてきた。それでも、神奈川県は私立高校が圧倒的な強さを誇る。俺と哲哉は三年間甲子園出場は叶っておらず、この夏が最後の挑戦となる。ただ、春の関東大会予選でベスト四まで勝ち進んだことは、大きな自信となっていた。 「絶対に甲子園に行こうな」  哲哉のその真剣な言葉に、俺は曖昧に頷いた。自分を疑う心が、未だに心臓に住み着いているからだ。 「なあ、翔~。アイスとかお菓子買いに行かね?」 「まあ、俺はどっちでもいいけど、夜間の外出は禁止だろ?」 「バレないって。エントランスの奥のトイレの横に裏口があってさ。そこからなら多分バレない」 「ん~」  その時、俺のスマホが通知音を鳴らした。相手は愛香だ。「今時間空いている?」という文字と、こちらを柱の陰から伺うクマックマのスタンプが押されている。 「悪い、ちょっと呼ばれたからさ。俺はパスかな」 「そっか。まあ一人で行ってくるよ。何か欲しいものとかある?」 「じゃあ、なんでもいいからアイス買ってきてくれ。金は後でいいか?」 「オッケ~」  それから三分後、愛香からは「やっぱりなし! 急にごめん!」という文字と両手を合わせて謝る仕草のクマックマのスタンプが押された。俺は「別に大丈夫。気にするな」と素っ気ない返事だけして、ベッドに横たわった。 「(どうせなら哲哉についていけば良かった)」  その夜、待てど暮らせど哲哉は部屋に帰って来なかった。 「哲哉が事故に遭った?」  その事実を聞いた時はまだ半信半疑だった。哲哉が帰って来ないことを教師に伝えたのは前日の夜だったが、その日ははぐらかされてしまった。翌朝、もう一度確認すると、担任の化学教師がそう言ったのだ。  哲哉が入院している病院を半ば強引に聞き出すと、朝食を食べることもせず大急ぎで病院へと向かった。  病院が開く時間を確認しなかったため、結局二時間近く外で待たされてから、ようやく面会が許された。 「お~翔~」  その気の抜けたような声に、一瞬ほっと胸を撫で下ろした。しかし、包帯でぐるぐる巻きにされた哲哉の右足を見て、胸がぐっと締め付けられた。 「大丈夫、じゃないよな」 「まあ、ね」  病室は世界から二人以外が消失したかのように静かだった。 「何があったんだ?」 「いや~、実は階段から足を滑らしちゃってさ~。ほんとアホだよな、俺」 「その足じゃ、試合は……」 「まあ無理だよ、折れているから。仕方ない」  気丈に振る舞う哲哉の強がりだということは明らかだった。 「夏大、頼んだぞ」 「ふざけるなよ、何が仕方ないだ」  俺の気持ちは既に決まっていた。だからこそ、仕方ないだなんて言って欲しくなかった。試合に出たいと強く懇願して欲しかった。  振り返り、病室から出る。ドアを背にして、魔法の言葉を唱えた。 「タイムリープ・十四時間」  強く手で握り潰されるような痛みが心臓に走った。一瞬呼吸が止まり、苦悶の表情でなんとか堪える。痛みが和らいでも、激しい動悸を感じる。  場所はホテルの部屋。哲哉が買い出しに出る直前だ。 「なあ、翔~。アイスとかお菓子買いに行かね?」 「おお、行こうぜ」 「ん、意外だな。翔は真面目だから、外出禁止だとか言うんだと思ってた。エントランスの奥のトイレの横に裏口があってさ。そこからなら多分バレない」 「……いや、ちょっと待て」  俺は思考を巡らせた。  その時、スマホが通知音を鳴らした。相手は愛香だ。「今時間空いている?」という文字と、こちらを柱の陰から伺うクマックマのスタンプが押されている。  俺は「ごめん、また今度でいいか?」と送信すると、哲哉に告げた。 「悪い、ちょっと呼ばれたからさ。俺はパスかな」  一緒についていくもの悪くはない。だが、どこでどのように哲哉が怪我をするのか分からない以上、一緒にいるよりも後ろから尾行する方が良い気がした。  哲哉が部屋を出ていくのも見届けた後で、俺はすぐに後ろを尾け始めた。  ホテルの場所は京都駅のすぐ近くの繁華街だ。明かりは多く、暗くて哲哉を見失うことはないが、人混みに巻き込まれると見失う可能性がある。俺は哲哉のすぐ近くを歩いていた。それでも哲哉が周囲を警戒する気配はない。もし見つかっても別に問題はないし、最悪タイムリープを使えば良いだけだ。  コンビニは歩いて五分くらいのところにあった。大通りを挟んだ向かい側にあるため、歩道橋を渡らなければならない。哲哉は階段を上りきったタイミングで足を止めた。 「(誰かと話しているのか?)」  相手は全身黒ずくめだった。黒のパーカーに黒のロングパンツ。フードを目深にかぶっており、マスクもしているためその素顔は見えない。明らかに不審な見た目である。だが、哲哉は初めはそれほど警戒していないように見えた。  しばらく立ち話をした後、哲哉が突然声を荒らげた。黒ずくめに掴みかかろうとするが、黒ずくめは巧みな身のこなしでかわす。そして黒ずくめが手を払うと、哲哉はバランスを崩して歩道橋の階段を転がり落ち、俺の近くで停止した。哲哉はうずくまって痛そうに右足を抑えている。  俺は歯を食いしばり、階段の下から黒ずくめを見上げる。すると、黒ずくめはすぐに走り去って行った。 「待て!」  今から追いかけても間に合わない。それに哲哉は怪我をしている。 「タイムリープ・三十秒!」  俺はすぐに走り出した。先ほどと同じ状況。一気に階段を駆け上がる。階段を上っている途中で、哲哉はバランスを崩し落ちてくる。それを俺は両腕でがっちりと抱きかかえた。 「翔⁉︎ なんでここに⁉︎」 「そんなことは後だ!」  俺は逃げる黒ずくめを追いかけた。歩道橋の反対側の階段を駆け下ると、意外とすぐに距離は詰まった。人通りの少ない道の途中でようやく手の届く距離まで迫った。 「待てって言ってるだろ!」  厳密には今の黒ずくめには言っていない。言ったのはタイムリープする前の黒ずくめだ。だが、それが分からないくらいには怒り心頭していた。  俺がパーカーの袖に向かって手を伸ばす。だが、掴もうとした直前に手が振り払われた。  まるで、見えていたかのように。  黒ずくめは振り返り、俺は相対した。身長は同じくらい。少し大きめのパーカーのせいで正確には分からないが、すらっとした細い線の体つきだ。 「お前、何者だ?」  返事はない。電灯がチカチカとその怪しい体を照らす。  黒ずくめに勢いよく摑みかかる。だが、掴めない。のらりくらりと回避され、次第に苛立ちが募る。 「(こうなったら奥の手だ)」 「タイムリープ・五秒」  そして、そのまま黒ずくめに摑みかかる。 「(さっきは右手で俺の左手を払われた)」  黒ずくめの右手が動く。 「(だから、今度は俺が奴の右腕を掴んで押し倒す!)」  左手をフェイントに使い、両手で黒ずくめの右腕を取りにいく。だが、その作戦も簡単に 看破された。黒ずくめは右腕を引き、俺の体を受け流した。 「(嘘だろ?)」  タイムリープ前後の俺以外の人物の動きは基本的に同じだ。つまり、俺は相手の次の動きが分かる。今の俺の攻めを回避するということは、フェイントを完全に見切ったということになる。 「(もう一回だ!)」 「タイムリープ・五秒!」  左手をフェイントに使い、両手で黒ずくめの右腕を取りにいく。黒ずくめは右腕を引き、俺の体を受け流そうとする。ここまでは一緒だ。だが、俺はそこで踏みとどまると方向を変え、黒ずくめの横腹にタックルするように加速する。  黒ずくめはそれをしゃがみこむように回避した。二回のタイムリープによる予測を上回る相手の動きに、俺は目を見開いた。  それはまるでこちらの動きが予測されているかのようだった。 「ちくしょう」  俺はムキになって攻め込んだ。右ストレートから左フック。俺に武術の心得などはなく、勢いに任せた攻め。それを全て軽くいなされる。初めのうち黒ずくめは守りに徹していた。だが、次第に反撃を開始する。  俺が右ストレートを放とうとした瞬間、顔面に一発カウンターが入った。 「くそっ! タイムリープ・五秒!」  直前に戻り、カウンターのカウンターを狙う。しかし、やはりそれも決まらない。  こちらの攻撃は一度も決まらず、相手の攻撃だけが無慈悲に俺を滅多打ちにする。その度にタイムリープを使うも、痛みがないわけではない。タイムリープによって身体の痛みは消えるが、痛みが脳に蓄積されていくような感覚。  こいつには勝てない。そう思った。  俺は一歩下がり、間合いを取る。すると、黒ずくめも後ろに下がった。  不本意だが、ここは退いた方が良さそうだ。そのまま距離を取ると、黒ずくめは暗く細い道の奥へと消えていった。  俺は片膝をつくと、大きく息を吐いた。喧嘩などほとんどしたことがない。疲れが一気に押し寄せてくる。 「翔! 大丈夫か⁉︎」  後ろからやってきた哲哉が駆け寄る。哲哉は息を切らしていた。かなり長いこと黒ずくめと戦っていたが、タイムリープを何度も使っていたので、意外と時間は経っていないようだ。  俺はゆっくりと立ち上がり、黒ずくめの去って行った方向を見やる。  とりあえず哲哉を救うことができた。それだけで今日は充分だろう。  適度な充足感と、得体の知れない猜疑心が俺の中で渦巻く。ただ、これから先の未来、ただならぬ出来事が起こるのではないか。そんな根拠のない思いは考えれば考えるほど膨らんでいった。 「お前、あいつのこと知っているのか?」 「……さあ、知らないよ」  不思議な一晩はそれで終わり。翌日も警戒していたが、黒ずくめが出てくることはなかった。
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