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疲れた足には辛い石の階段をのぼりつめると、そこには、こよりの背丈よりはるかに高い、古びながらも黒光りしている木の扉があった。
その上には、錆びた切り文字。
「館、書、図......自? あ、図書館」
読めたのはそれだけ。ほかの文字はなく、右端の「自」の文字も右に傾いている。
でも、目の前の建物が図書館とわかるだけで十分だった。きっとここが探していた図書館だ。
両開きの扉にはインターホンもノッカーもない。緊張で震えながらドアノブを少し回すと、鍵はかかっていなかった。見た目の印象とは違い、迎え入れてくれるように扉はするする開いた。
その瞬間、光があふれてきて反射的に顔を背けた。目を瞬かせながら開くと、わずかに開いた扉の向こうの光景に息を飲んだ。思わず惹かれるようにして足を踏み入れる。
9階の高さはあろうかという吹き抜け。
白磁のような天井には、大きく四角に切り取られた曇りガラスの採光窓。
そして柔らかく落ちる光が照らすは、壁面一面の、本。
入ってきた扉の両脇も、天井の高さまで書架が据えつけられ、隙間なく整然と本が並んでいる。見上げていると、本が降ってくるような錯覚さえ覚えてくらりとした。
「すごい......」
ふだん本を読まないこよりでも、これほどに膨大な量の本が埋め尽くす壁を見たことはなかった。本を手に取るための配慮か、回廊が2階、3階までぐるりと張りだしている。
厳かに静まり返っていて、思わず敬虔な気持ちになっていると。
「ようこそ、自動筆記図書館へ」
まっすぐ伸びる樹木を思わせる低く静かな声が響いて、空気が一変した。
ハッと声がした方を見ると、離れた位置に磨きこまれて飴色をした天蓋つきのカウンターが中央にどんと構えている。その楕円を描く横長のカウンターの前に、人が立っている。
その人を見た瞬間、回れ右をしたくなった。
黒のハイネックカットソーに黒の細身のパンツ。髪の毛も漆黒、指先も黒い手袋で覆われている。文字通り、全身黒い。
なにより異様なのは、その顔の片側を覆う黒いマスク。
顔がひきつった。
「あの、私......」
「そんなに怯えないでください。どうぞこちらへ。まずはひと息つきましょう」
マスクの人物は穏やかにそう言うと、誘うように優雅に館内へと手で招いた。扉と同じように見た目と違ってやわらかな物腰だが、その見た目の異様さの方が上回る。
警戒と緊張にこわばりながら歩くと、足元がきしんだ。
長い年月に耐えて摩耗した木の床は、飴色に濡れて光っている。館内には、ひんやりと乾いた空気が流れ、木の実の香ばしさと人工的なインクの混じり合った匂いが漂っている。本が多かった田舎の祖父母の家みたいだ。
その人はカウンター前の木の椅子をひいて、こよりに座って待つよう言い残すと、カウンターの脇を過ぎて館内の奥へと姿を消した。その流暢な一連の動きは、彼がこよりのような人間のあしらいに慣れているのだとわかる。
腹を括って椅子に座ると、ギッと音が鳴った。よく見れば、カウンターも椅子も、カウンターの後ろにある書棚もなにもかもが古い。それでも丁寧に使われ、手入れされてきたのだと一目でわかった。
でもどこか現実味が薄い気がして、周りを見回して気づいた。人の姿が見当たらない。図書館なのに、誰も利用者の姿がない。職員の姿もない。
でも壁面すべてに本、そしてカウンター背後の棚にも、本だけは膨大にある。
そこに立てかけられた本は、形も厚さも色もバラバラ。背表紙が剥がれぼろぼろのもあれば、新品のように綺麗なのもある。
ここに鷹翔に繋がる何かがあるのかもしれない。
期待とともにカウンターの内側をのぞきこもうとした時だった。
鼻先を爽やかさのまじる甘い香りがかすめた。
紅茶だ。しかも好きな種類のハーブティーの。
その香りを連れてきたのは、カウンターの脇から再び姿を見せた片マスクの人物だった。ティーポットとカップをのせたトレイを手にしている。
慌てて椅子に座りなおしたこよりを気にすることもなく、ティーカップを静かに差し出した。
真っ白なカップの中で、淡く青みがかった琥珀色の液体がかすかに揺れている。
ハッと顔を上げると、思ったより近い距離にマスクの顔があった。背丈はこよりと同じくらいか、女性にも見える細身の、まだ中学生かそのくらいの少年。
思わず拍子抜けした。もしかして、この図書館の案内役だろうか。
「どうぞ」と大人びた仕草で紅茶を促され、こよりは目の前のカップに口をつけた。かすかにミントの爽やかさが鼻をぬけ、やわらかな甘さが全身にしみわたる。ハーブティーでも、好きなカモミール。ずっと張り詰めていた神経がほうっとついた息とともに緩んだ。
「飲みながらで構いません。こちらの紙に必要事項をご記入ください。あわせてご署名もお願いいたします」
ハーブティーに気が抜けかけていたこよりに、少年は事務的な口調で四隅がくすんだ紙と、カウンターの上にぽつんとあった羽根ペンをとって差し出した。
「あ、あの、違います」
慌ててカップを置いて立ち上がった。カウンターの内側に戻っていた少年は、訝しげに視線だけをよこした。
「私じゃないんです。その、人生を書き換えたくて来たわけじゃなくて、人を探してて」
「はい?」
マスクの少年は、ますます不審そうに眉をひそめた。マスクがあるせいで、表情が厳しくなると年下にも関わらず怖い。
「あなたが、書き換えたいのではなく?」
「違います。ええと永谷鷹翔という人が、ここに来てないですか?」
話を切り出すいいタイミングだ。
身を乗り出したこよりを、少年はしばらく黙って見た。
「もう3週間、行方不明になってるんです。でも自動筆記図書館……ここに行ったんじゃないかと思って訪ねて来たんです。彼が、ここの図書館を知っていたみたいで、来れば何かわかるんじゃないかなって。ここに来る方法を教えてくれた人がいて」
畳み掛けるこよりの言葉を遮るように、少年は手を振った。
「待ってください」
「あの、高校2年の男子で、けっこうかっこいいんですけど、来てませんか?」
「少し話を」
「写真もあります、見たらわかりますか?」
教えてほしい。必死だった。
言いながらスマホを取り出したこよりを、鋭い声が遮った。
「いい加減、黙っていただけますか? それともあなたのその口は、縫われないと閉じない緩い口ですか?」
いきなりの辛辣な言葉にこよりは息を止めた。
「ここは人生を書き換えたい、つまりリスタートさせたい方たちだけが来るところです。そうでない方は無用です。お帰りください」
言葉遣いは丁寧だ。慇懃無礼とさえ感じられる。
でもさっきまでの態度と全く違う。あまりのギャップに呆然としたこよりに構わず、少年は大きくため息をつくとペンと紙、飲みかけのティーポットとカップさえも片付け始めた。まだ全然残っているのに。
「ちょっと」
自然と険しい声になった。
「それなくない? 態度変わりすぎでしょ」
少年はこよりを無視して茶器をトレイにのせた。
「何歳か知らないけど、年上の人の話はきちんと聞くって教わってないの? つうか、あんた中学生よね? こんなとこでどうしてるのよ」
カウンターから出て行こうとした少年の袖を掴んだ。茶器を落としかけて少し慌てた少年は、マスクをしていない片側の顔を苛立ちに歪めて振り返った。
「ご自身のことを置いておきながら、すばらしい忠告ですね。初対面の相手の服をシワにすることが年上のすることとは」
余計に離すものかとなおさらシャツを掴む手に力をこめた。
相手がどうだろうと、ここまで来て、手ぶらで戻るわけにはいかない。
「じゃあ話聞いてよ」
小さく「うっぜ」と呟かれて、一瞬幻聴かと思った。でも少年は涼しい顔をしている。
「ここは人探しの手伝いをする場ではございません。自分の人生を書き換えたい人間だけが来る崇高な図書館。どうぞお引き取りを」
カチンときた。
「だから! ここにその、書き換えたくて来た鷹翔が! いるかもしれないの!」
「どうでしょう。かなりの方を相手にしてきておりますので、いちいち覚えておりませんし、仮にその彼氏さんとやらがおいでになっていたとしても、そのことをお伝えすることはございませんので」
「何それ、だいたいあんた受付かなんかでしょ、話になんない。ほかの人いないの?」
カウンターの脇から奥を覗こうとしたこよりに、少年は腕を振り払いながら鼻で笑った。
「残念ですね。僕だけです」
「は?」
少年はマスクのない片ほおを自嘲的に歪めた。
「当館の責任者は僕です。他におりません」
二度唖然としたこよりを冷たい目で一瞥し、掴まれていたシャツの部分を軽く伸ばした。
「当館をご利用になられないのでしたらお引き取りを。でなければ力づくでもよいとみなしますが」
年下のくせに丁寧な口調で脅してくるその嫌味な態度に腹の中が煮えくりかえる。
「や、やれるもんならやってみなさいよ」
退くわけにはいかない。やれるもんならやってみればいい。
少年がこよりに手を伸ばし、思わず慣れないファイティングポーズをとった時だった。
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